親と神
2023年8月3日
若い時代は、理性よりも感情が精神を司る、というような説明の仕方をしている人がいた。言い切ってしまうのは極論のような気もするが、言おうとしていることが伝わってこないわけではない。親の視野とは違い、自分から見える景色の中で、自分の思いや願いを正当化するために、理屈を用いるということは、確かにある。もちろん、若くなくてもあるが、若い頃の自分を思うと、そうしたことが顕著であったことは省みるものである。
親が正しいかどうかは別として、親の気持ちを察することができず、傲慢に振舞う子。ユダヤの教典はそれを厳しく戒めている。が、戒めているということは、若者は概してそういうことをする、ということでもあるだろう。そして当の本人は、自分が理不尽に反抗しているなどとは考えていないに違いない。そういう反抗心をもたないと、殻を破って大人になれない、という心理的な一面もあると思われる。ただやがて気づいていくことが必要ではあるだろう。ずっと、自分が正しい、の一点張りでは、成長したことにはならない。
自分の中に、間違いがあった。そう気づいて頭を下げることができたとき、ひとつ大人になるのである。親に対してそれがなされたとき、さて、親はどういう態度に出るだろうか。おまえはよくも親に酷いことを言ってくれたな、反省しろ。そう言うだろうか。否、たぶん親は、あっさりと許しを示すのではないだろうか。かつての子の反抗や暴言、もしかすると暴力に対しても、それを責めることはないと思われる。
ひとが神に対して、どれだけ酷いことをしてきたかについても、神は親のように子を心配しているのかもしれない。自分の誤りを認めてただ頭を下げてきた子がいたら、それをただ赦すことしかしない――聖書は、そうした有様を描いている、と読むことができるように思う。
ただ、それをしなかったり、あるいは偽ったりして、調子に乗って親を蔑ろにし、親の顔に泥を塗ることばかり続けていたとしたら、親自らが子に手をかける、ということが確実になされるであろう。現実の親は、ふつうそこまではしないであろうから、案外人間の親の方が、優しいのかもしれない。人間の親の愛は、子の命までは奪わないのが通例であると思われる。人間は、情を滅するほどまでに義を優先させないとするなら、そうだろう。神は神の義を通す。単純に、神と親とを同一視する事はできない。比喩には限界がある。
だが、私たちに与えられた日常の中から、何か気づかせてくれることはある。私たちは、どんなに赦されていることだろう。どんなに寛い心で、誰かが痛みを我慢することによって、生かされていることだろう。それを聖書から教えられることもあるかもしれないし、聖書を基に、人との関係に気づかされることがあるかもしれない。聖書は、神の操り人形をつくるものではないし、誰かを支配するためのものではない。神との関係を知り、人との関係に気づかせてくれるものである。そして、命を与えるものである。