雨の七夕にふと思った
2023年7月16日
そう言えば七夕は雨だった。
七夕伝説というものがある。子ども向けにもよく知られた話だが、エッセンスはちょっと大人ではある。彦星とおりひめ星といったロマンチックな名前をよそに、いまは中学受験をする子に、わし座のアルタイルとこと座のベガという名で教え、はくちょう座のデネブと共に夏の大三角を形成する、と皆暗記している。
中国の標準的な伝説では、よく働く二人の男女を天帝が夫婦にさせるが、いざ夫婦になるとふたりは仲良し過ぎて仕事をしなくなったために、天帝は2人を引き離す。但し、泣き暮らす2人に対する情けなのか、真面目に働くなら年に一度だけ逢うことを許した――と、ざっくりいえばこんなものなのだろうか。
七月七日には2人は逢える。だからこの夜は、晴れるといいな、と多くの人が思っている。
それにしても、どうして梅雨のこの時期に、などとも思うが、元来旧暦であったことや、中国の伝説であることなど、いろいろ説明をつけようとすればつけることができることだろう。
だが、もっとクールな眼差しを向ける人がいる。雨が降ったって、雲の上は晴れだからいいじゃん、と。
それを言ってはおしまいである。が、事実その通りだ、と言わざるをえないから、優れたジョークになっている。人間からすれば、雲があり雨があるため、星が見えない。星が見えないから2人は会えないのだ、と悲しく思う。人間の目から見えるもので、天上のことを判断するというのは、愚かと言えば愚かなのであるが、そのように見てしまう。
いまでは地動説が常識だが、太陽が動くのを見ている人間たちが、簡単には天動説を受け容れられなかったのも尤もである。人間は、自分の目に見えるものこそ正しいと思うのだ。
神と人との間には、超えられない溝か壁かがあるという。それがなあなあになって出入りや関係が簡単になっているのが、日本思想の性格である。だがユダヤ教からイスラム教まで、ひとりの神を掲げる信仰は、神と人との間には超えられないものがあると見なしている。神は人の世界をすべて超えているのである。
暗い心になる。心に雨が降る。希望の光が見えないでいる。絶望しそうになる。だが、それは雲や雨が隠しているだけだ。それを超えると、神の愛が燦然と輝いている。その光を阻むものは、しばしば私の罪である。ひとの罪が神の愛の届くのを妨げる、というように受け止めるべきである。
ユダヤ人たちも、キリスト者たちも、聖書の中で神を見上げていたのは、そういう形であった。神がブラックになるわけではない。人の世界の気流が生んだ雲と雨が黒い仕切りになっているのだ。
しかし、新約聖書を通じてその罪の意味を知る者には、罪を吹き払うイエス・キリストが来てくださる。神と人とのつながりが回復するのだ。