あなたの居場所ではない教会

2023年7月10日

言葉としては同じものであるにしても、その概念というか、それが指している内容については、使う人により意味は様々であるだろう、というのが私の持論である。いつでもそれを前提にして考え始める必要があると思っている。そうでないて、同じことをその言葉で考えているように錯覚して決定したことが、後で、そんなはずではなかった、ということにきっとなるからである。
 
聖書は二千年以上昔の本である。新約聖書は新しいが、それでも昔の言葉で書かれており、時空を超えた文化の中にある。だから、その言葉の昔の意味はどうであったか、探究することがなされる。また、当然「訳語」として適切であるかどうかも問われる。
 
つまりは私たちの思い込みによるイメージで、勝手に読むことが十分ありうる、否むしろそればかりだ、ということを認識すべきなのである。また、結論から言うが、私は、それをやむをえないというよりは、今の環境で、今の意味で読むということも大切である、と考えている。
 
たとえば「戦争」と訳している言葉が聖書に見られるが、過去に「戦争」と書いてあるもので昔の人が抱いたイメージと、私たちが現代「戦争」という言葉で思い浮かべるものとは、全く違うはずである。もちろん、歴史の中でもそうであり、「戦争は必要だ」などという言明が常識だった時代もあるが、現代でそれをそのまま肯定すると、人類の滅亡を促すことにもなりかねないことになる。
 
だから、聖書でいう「救い」や「喜び」もそうだし、「神」そのものも問題である。とくに日本語の「神」は、旧来の意味合いが備わっているために、厄介な問題を含んでいるとされている。
 
「教会」という言葉も、怪しい。日本語で「教会」としてしまったことが、果たしてよかったのかどうか、議論もあるのだ。何か「教え」を垂れるところである、というのは教会のもつほんの一部分でしかない。しかしまた、「では教会とは何か」をいまから論じ始めようとすると、とんでもなく分厚い本ができてしまうだろうし、それでも結論が出ない不毛な議論となりうることだろう。
 
世の力と闘うこともあるだろう。それに負けもするだろう。結局は勝利するというのが黙示録を含め、新約聖書の信じるところであるが、連戦連勝というわけにはゆかない。また、毒麦のたとえにもあるように、とんだ偽物が、本物のような顔をして世にはびこっているということも、十分に警戒しなければならない。
 
いくらよく知られた教団名を掲げていたとしても、命ある言葉を発していないところや、実に冷たく冷え切った組織もある。教会と名が付いて、歴史があり有名であればよいというわけではない。
 
ファリサイ派や権力者たちは、自身立派に律法に従う生活をしていたはずである。そう自認もしていたし、社会もそう理解していた。だが、イエスはファリサイ派やサドカイ派の冷たさと、人間くささがぷんぶん臭うところを真っ向から指摘したことから、彼らに憎まれて殺された。
 
新約聖書は、イエスの語ったことを、神の言葉とする。神の言葉が語られているところでは、それを聞いて、愛のない自分を恥じることだろう。そして、自分に期待することをせず、神からのものを求めることだろう。
 
神という名を呼ぶとき、それは人間自身を誇ることとは正反対のところに、その人は立っているはずである。形だけ主の名を呼ぶような者の空しさは、福音書にたっぷりと書かれている。当時もいたのだろう。ということは、現代もいるということである。でもご安心ください。私がお伝えしていることをご理解くださる方は、偽物の教会に居場所をもつ方ではない。そういうところは、すでにあなたの居場所ではないのである。



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