白い衣を着せられ生きている
2023年6月19日
ずいぶん前のことだが、牧師のことを「メッセンジャー」と呼ぶのは、あまり好きではないんですよ、という声をある人が発した。深い意図は分からなかったが、ただ語るだけではない、という意味だったのだろうか。新約聖書で「天使」が登場するが、そこに「天」という言葉の意味は隠れていない。この黙示録の連続説教において、説教者は幾度となく繰り返していた。「天使」は英語にするならば「メッセンジャー」であるから、七つの教会の天使に送れ、とヨハネが命じられた手紙が、それぞれ「教会の天使にこう書き送れ」と言われていることと結び合わせると、もしかすると各教会の牧師に宛てた手紙だ、という理解をすることもできるのではないか。
黙示録に書かれてあることをそのまま受け止めると、これら七つの教会に宛てたそれぞれの手紙は、それぞれの教会にだけ送られたように見える。つまり、今日のサルディスにある教会への手紙は、サルディス教会の牧師だけが受け取った、そう見えるわけである。
サルディスといえば、リディア王国の首都である。ペルシア帝国のときの交通路として名高い「王の道」の西の端である。ここにもキリストを信じる者たちは肩寄せ合って信仰を続けていたのであろう。
だが、黙示録をいま私たちはこうして全部読んでいる。黙示録という文書と読者との関係においてこの情況を見るならば、これら七つの教会の牧師への手紙は、七つすべての教会で見られていることになる。さらにいえば、これらの教会に限らず、時間空間を超えていまここにいる私たちに至るまで、すべての聖書を読む者に全部が公開されていることになる。つまり、それぞれの教会に宛てられた手紙は、その内容がどうであろうと、他の教会にも、すべての聖書読みにも、全部晒されている、ということになる。
公開審査であり、成績が張りだされたようなものである。その点、このサルディス教会への評価は厳しい。まず「わたしはあなたの行いを知っている。あなたが生きているとは名ばかりで、実は死んでいる」という点から入る。説教者は、ここの「名ばかりで」という訳を、適切でないと説明した。「名ばかりで」は、新共同訳から聖書協会共同訳、そして新改訳2017まで、新しい聖書は一様にそう訳している言葉である。原文を直訳的に示すと、「生きているという名をもっているが、死んだ状態である」というふうであるのだ。「名」とは、「名声」や「特徴」という概念を含みもつようなものである。「名ばかりで」だと、「生きて居る」ことが虚偽であるように聞こえるが、原文はそのようには見えない。「生きている」ことを否定する理由はないのだという。
聖書で「名」という概念は重要である。日本語でも「名は体を表す」という言い方があるが、聖書の場合には、その「名」は本質や実体であるとまで考えられている。真の名を知られると、相手にコントロールされてしまう、という考えは『ゲド戦記』でも有名ですが、「大工と鬼六」の昔話にも見られる考え方である。
3:5 勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。わたしは、彼の名を決して命の書から消すことはなく、彼の名を父の前と天使たちの前で公に言い表す。
サルディスの教会へのこの手紙の最後にも、もし勝利をすれば、という前提ではあるが、「名」というものについてそれが非常に大切なものであることを伝えている。勝利するならば、その「名」は命の書から消されない。その「名」は神の前に読み上げられる。私たちは、もっともっと厳粛でいなければならない。私の「名」が、私の本質として、神の前に掲げられる。合格者の名前が次々と読み上げられるというシーンが映画やドラマでよく見られるが、確かにそうなのだ。卒業式で一人ひとり名前が呼ばれ、その者は卒業が認められるというのも同様だ。
そして、「生きている」という「名」を、あなたはもっているではないか、と聖書は告げる。こんな名誉なことがあるだろうか。あなたのために、イエスは死んで、蘇ったではないか。あなたはその復活の命に、すでに「生きている」ではないか。この力強い励ましに、私たちは信仰で応えなければならないはずである。命ある蘇りの主がいる。この信仰によって、私たちは「生きている」のである。
それを、「実は死んでいる」と言われるようにはなりたくないものだ。これも原文では「実は」という強い語が置かれているわけではない点に注意したい。「実は死んでいる」としてしまう必然性はない。「死んでしまっている状態のようなあり方をしているではないか」との叱責は確かにあるが、「名ばかりで、実は」と訳すほどには、激しい断定ではない。それに、もしも「実は死んでいる」のであれば、「勝利を得る」道ももう閉ざされてしまっているのではないか。死んだようになっていないか、自分をよく認識してみなさい。そう諭した神は、私たちのすべきことを教える。
3:3 だから、どのように受け、また聞いたか思い起こして、それを守り抜き、かつ悔い改めよ。もし、目を覚ましていないなら、わたしは盗人のように行くであろう。わたしがいつあなたのところへ行くか、あなたには決して分からない。
悔い改める。目を覚ます。人間の知恵で神のことをすべて分かったかのように思い描くことなく、緊張感をもって、世を見ると共に、自分自身をよく認識する必要がある。そのように、悔い改める、つまり方向転換をするのだ。
注意すべきは、これは「教会」に宛てた手紙だということである。それまで神を知らず、神に背を向けていた者が自分の罪を思い知らされ、神の方を向くという意味での「悔い改め」ではないのである。すでに「悔い改め」をしたであろうはずの、クリスチャンが「悔い改め」をするように迫っているということである。
だが、それが如何に難しいものであるか、私たちは嘆くことが多い。礼拝での祈りで「悔い改めます」という言葉は聞かれることがあるが、本当のところはどうなのか、分からない。そもそもそのような言葉が全く出てこない教会も、実はある。そして、自分は常に正しくなったのだ、という「信仰」が益々強くなるのである。厳しい視点だが、それがあったからこそ、宗教は歴史の中で幾らでも過ちを繰り返してきたのだ。その過ちから、自分たちだけが免罪されているという保証は当然ないのに、そのように錯覚してしまうから、過ちは何度も繰り返されてきたのである。もちろん、それはこの私自身もその危険性を宿していることを、絶えず問い続けていなければならない、という戒めをも導くことになる。
3:4 しかし、サルディスには、少数ながら衣を汚さなかった者たちがいる。彼らは、白い衣を着てわたしと共に歩くであろう。そうするにふさわしい者たちだからである。
厳しい指摘ばかり受けてきたサルディスの教会であるが、そこにも、見所のある者たちが、多くはないがいるということは、慰めである。彼らは、いつか定めの日に、イエスと共に歩くという。この「歩く」というのは、私たちが比喩的に「生きる」という意味で「選手として歩いていく」というように使うのと似ているものと思われる。だから「イエスと共に生きる」のような受け止め方でよいかと思う。
だが、そのとき白い姿である点が特徴的である。サルディスは高級な毛織物の産地であったというから、その高級生地を、白という輝きの中で身にまとった様子を描いているのではないかと考えられる。
3:5 勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。
黙示録ではやがて、「衣を小羊の血で洗って白くした」(7:14)のような表現をとる場面も出てくる。とんでもないパラドックスである。血で洗った衣が白くなるはずがない。もちろんこの血というのは、キリストの十字架の血を表し、白くなるというのは潔癖であり無罪であること、罪が赦されたことを表すと捉えてよいであろう。それでも、あまりにパラドキシカルな表現である。サルディスでの「白い衣」は文字通りの白さであるが、黙示録の筆者は、小羊の血による白さのイメージを、心のどこかに有していたに違いない。
その白い衣を着てイエスと共に歩くであろう、その言い方は明らかに未来のことである。しかし、神において未来が現在や過去と別ものとして設定されているのではない、とする考え方がある。「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です」(ヘブライ13:8)というのは、人間の時間軸の中でキリストがずっと同じだよ、ということを言いたいだけのものではないと思う。神はそもそも時間の区別というものを必要となさらないのだ。だから、この白い衣は私たちにすでに着せているも同然である、という信仰をもっても、よいのではないか。主はいまここにすでに私たちと共にいて、共に生きているという信仰があっても、よいのではないか。
主が「生きている」のは当然である。では私はいま「生きている」か。それとも、「死んだも同然でいる」か。説教者は、「教会」というものがそのようであるかどうか、問うた。その教会は、神の救いを受けた一人ひとりの魂からできている。一人ひとりがその声を聞き、それに応えていくことを通して、生きてゆくであろう。その歩みは、とても自然に「教会」を形成するであろう。形成できるに違いない。