イエスの眼差しの中で

2023年5月29日

黙示録を続けて読んでいる。今日は、スミルナの教会宛の手紙。エフェソに続いて二つ目であるが、この二つの都市の「距離」は、56kmほどであるという。福岡人として考えると、北九州市までの距離である。また、福岡から西南西に56km進むと、玄海原子力発電所がある。
 
この大都市スミルナには大きな教会があったようである。2世紀半ば、ここの司教ポリュカルポスは、イエスと似たような形で逮捕され、殉教する。当時ローマ人からすると、多神教の神々を信じないキリスト教徒は「無神論者」と呼ばれていた。皇帝の守護神にかけて誓し、キリストを誹れと地方総督に迫られたとき、ポリュカルポスはこう応える。「私は86年間もキリスト様にお仕えして参ったが、ただの一度たりとも、キリスト様は私に対して不正を加え給うようなことはなさらなかった。どうして私が、私を救い給うた私の王を冒涜するような事ができようか」と(田川健三訳)。焚刑の場面で、焔がその身体を囲むような奇蹟を人々は見る。介錯人に命じて槍を突かせると、身体から鳩のような霊と血とが流れ、火が消えそうになるほどだったという。このポリュカルポスが、ヨハネの黙示録に関わっているのかどうかは謎であるが、初期の教会からは様々な伝説が遺されている。そもそも新約聖書も、そのようなひとつであるのかもしれない。
 
さて、天使である。先週私は、「教会にとっても、教会を救う人物が現れることがある」という角度から、「この教会を守る天使なるものがきっといる」という天使観を支持したのだったが、私たち一人ひとりが、天使の如き働きをすることができる点に、説教者は今回注目させた。そう、それは「天」という場所には関係しない。むしろこの「天」は、また意による福音書のように「神」のことであるとすれば、正に「神からのメッセージを伝える者」であるに違いない。神の言葉を語る説教者はこの「天使」に相当できる。同時に、誰かに福音を語るべき私たちもまた、「天使」であると言って構わないだろうと思う。
 
しかし、やはり日常的に福音を講壇から語る説教者というのは、その役割も重要であるし、また責任がある。関田寛雄牧師・四竃揚(しかまよう)牧師、北島敏行牧師などの名前が出され、小川治郎牧師や加藤常昭牧師のことも持ち出された。説教者は、その方々の「立ち姿」を忘れない、と幾度か口にした。これはただの姿勢とか話し方だけのことを言っているのではないはずである。その人の生き方を称しているに違いない。それは人生であり、生活であり、生命のことである。生命となると、神の命を、言葉として語っていた、ということであるものと私は理解する。
 
礼拝説教では、きっと何かしら新しいものを受けるだろう、というのが私の持論である。その都度、神からの新たな光を受ける、そこにレスポンスして、自分は神を礼拝するのだと考えるし、自分は新たな命に生かされるのだ、と考えている。
 
毎回、AIが作成したような当たり障りのない作文を語る人がもしもいたとして、聞く方がそれで満足しているとすると、これは悪魔の思う壺だろう、と思っている。聞く者が、自分の知っている知識ばかり話してくれるので、自分は聖書がよく分かっている、という気持ちになりやすい。それを見て、尤もらしいことだけを並べるだけの語る者も、自分が立派な説教をしたといい気になる。互いに自分を見つめることを忘れ、聖書を知識のひとつとして扱うことに慣れてしまう。神との交わりが起こらず、人間が中心の集会がただ楽しげに過ぎて行くだけである。こうして言葉は命を失い、魂が死んでゆくことになる。
 
説教の言葉に、ハッとさせられる。ああ、気がつかなかった。自分はこんななのだ。醜く愚かな自分に気づかされた。主イエスはいま自分にこのように告げてくれた。新たなものが見えた。イエスのこんな姿が新たに輝いている。ああ、この恵みを胸に、また歩き始めることができる。主よ、感謝します。神よ、あなたを拝します。あなたに従わせてください。ここから、またその光を受けて、示された道を歩きたい……。
 
スミルナの教会に送られた手紙の最初のメッセージはこうである。「わたしは、あなたの苦難や貧しさを知っている。だが、本当はあなたは豊かなのだ。」(黙示録2:9)
 
これは新共同訳であるが、新しい聖書協会共同訳でも、殆ど変わっていない。だが説教者は、この日本語に苦言を――遠慮がちにだが――呈する。これは誤解しかねない、と。ギリシア語には「本当に」にあたる語があるわけではない。「本当は豊かなのに知らないのか」と責めているように聞こえる可能性があるのだ。そうではない。「豊か」であることを軸にするのだ。暗示をかけられるような事態になってもいい。おまえは「豊か」だ、と神は告げている。ただそれだけを胸に、ここから歩き始めよ、という命令を受けるのは、大きな勇気を与えられるものである。
 
さらに、ギリシア語の「知っている」は「見たよ」の語から生じた言葉である。「知っている」の意味で訳して全く構わない語であるのだが、「見た」を背景にもっていることを踏まえると、「見たよ、あなたの苦難と貧しさを。しかし、あなたは豊かである」と受け止めてよいことになるだろう。
 
説教者は、「主イエスの眼差しの中であなたは豊かだ」と、このことを敷衍した。それはひとつの解釈である。黙示録にはそんなことは書いていない、と抵抗する人がいたとしても、私は責めない。だが、「知っている」が「見た」に由来することを踏まえたとき、この主体は誰かに気づくと、背筋がぴんと伸びる。これはイエス・キリストの黙示だったではないか。イエスが、あなたは豊かであると見たよ、と告げていたのである。正に「主イエスの眼差しの中であなたは豊かだ」、ということではないか。
 
では、何がどう豊かなのか。スミルナ教会にはスミルナ教会の事情があるだろう。ここに挙げられているように、迫害を超えて命を受けるという約束がここにある。見える現象としては、そこには「苦難」と「貧しさ」があるのだろう。それは、私たちの側に引き寄せても、全くそうである。私たちは、自分の思うとおりの人生を謳歌しているわけではあるまい。恵みとして幸せが与えられているというのはよいが、何かしら苦しいことも感じず、貧しさを何も覚えないようなものを良しとしているのでもないし、それを求めているわけでもない。
 
説教者の教会で、以前、ある宣教団体の人をゲストに呼んで「証し」をしてもらった。すると、神を信じて祝福され、社会的に大きな成功を収めたので感謝だ、というような内容だったという。すると、役員の方々が、この団体を次からはお呼びしないことにしたというのだ。もちろん牧師の意向も含まれているかもしれないが、役員会が、そのような信仰への姿勢をきちんともって対処するというのは、教会を守るためには非常に大切なことであると私は思う。また、そのような役員会であるということ自体が、その教会の信仰であり、神の言葉に生かされている証しであるのだ、と羨ましく感じた。
 
苦難を避けねばならないわけではない。貧しさそのものが敵なのではない。それはあるのだ。あってもよいのだ。否、これを少しばかり抽象したように捉えたときには、むしろそれは必要なものだとすら私は考えたい。自分が恵まれて喜んでいる、それはいい。だが、世には苦しんでいる人々がいる。不当な仕打ちを受けている人々。不条理な境遇にある人々。それを知っても、苦しまないような心でありたくはない。あることはできない。福音を届けられたら、あの人は死なずに済んだのだ、と思うこともある。私がこうして知らせようとしていることを、もしもあの人に伝えられていたなら、その人はあんな事件を起こさずに済んだのではないか、と胸を痛めることもある。そして自分の生活の貧しさが強調できない身であったとしても、心の貧しさは否めない。ひとに優しくできなかった。ひとを呪うような思いを懐いた。ひとを軽蔑の眼差しで見つめた。自分が正しくてその人が悪いと決めつけて相対した。なんと自分は貧しいのだろう。それを「罪」と呼んでよいかどうかはまた別として、そこを踏まえていることは、やはり何らかの形で必要なのだとするべきではないだろうか。
 
ただ、それに気づいて安心できるものではない。私が安く買うことで、それを生産する人が苦境に陥る場合もある。私の収入を得るための営みが、誰かの家庭を困窮に陥らせているかもしれない。私がいまコーヒーを淹れるために、飲む量の何倍もの水を使っている。だがその水が手に入らない貧しさの中で、死んでいく子どもたちが世界にはいるのだと日々思っている。貧困に喘ぐ世帯がたくさんある。とくに女性についてはさらに深刻であり、その子どもたちがいることもいたたまれないが、私がその人たちを窮地に追い込んでいるような社会のつながりを想像することがある。ほかの人に、「苦難」と「貧しさ」はいいものだよ、などと能天気に話をするつもりは毛頭ない。
 
だが、私たちをイエスは見ている。十字架の上からの、赦しの眼差しの中に、私たちはある。この真実が、救いにならない人は、究極的にはいないはずである。イエスの眼差しに気づいて、それに応えるとき、ひとの貧しさは、豊かに変わることができるものだと信じている。それは、客観的な現象として起こることではない。ひとがその心でこれに気づき、神に応答して神と関係を結ぶことを経てから、起こる出来事である。イエス・キリストを通してこそ成り立つ、出来事である。そこに気づいたら、ある意味で「死」は超越できる。永遠の命という憧憬が、確信の事実となるのである。



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