名前を呼ぶ

2023年4月25日

新緑が美しい。妻は、目を手術して、こんなに世界は鮮やかだったのか、と感動の毎日を送っている。二度目の新緑も、相変わらず素晴らしいと言って憚らない。緑だけではない。色とりどりの花も、目を癒やしてくれる。この時季は、ほんとうに心躍るように感じる。
 
一つひとつの花に名前がある、というのが、NHK朝のテレビ小説「らんまん」に取り上げられた、牧野富太郎氏の主張であった。
 
牧野植物学の業績は有名であったものの、私は圖鑑そのものは拝見したことがない。だから何かそのお仕事や思想について発言する資格はないのだが、この「名づけ」という行為について、少し感じるところがあった。
 
牧野博士自身は、数千の植物の名前をつけたという。「雑草」などという呼び方をする世間の受け止め方には、拒否反応を示したらしい。
 
地域猫に目をかけている。地域猫は、自然環境の中で暮らしながら、むやみにひとに迷惑をかけないように、ボランティアが世話をしている。いまのところ、交配できないような措置をとるということでしか、守ることができないが、その地域で一代限りの命を幸せに生きてほしいという願いの中にある。
 
彼らにも、一人ひとり名前がある。名前を呼ぶと、自分のことだと分かっている。いつもの呼び名で、またごはんがもらえる。撫でてもらえる。羊が、その羊飼いの声を聞き分ける、という福音書の言葉は、絶対に嘘ではない。
 
聖書の神は、ひとに呼びかける。そのとき、名前を二度繰り返して呼ぶことが多い。イスラエルなどの文化に基づくことなのかもしれない。しかし、大事な点は、名前で呼ぶ、ということだ。「そこの兄ちゃん」でもないし「あんた」でもない。
 
人には、それぞれ名前がある。名前というものは、その存在の本質を表す。古来、そのように考えられていた。神という、人間を超えた絶大な存在が、私の名を呼ぶ。ちっぽけな私、世界からすれば意味のないような、塵芥のような、私の名を呼ぶ。
 
信じられないような出来事が、確かに、起こった。
 
旧約聖書では、しばしば姿なき形で、神は選ばれた者たちに語りかけた。新約の時代、それはイエスという方の口を通して、ふんだんに語られた。畏れ多い創造主からではなく、人の肉声で語られた。
 
それは文字として記録された。その声を聞いていた弟子たちが伝え、書き留められた。不正確な部分があったかもしれない。弟子たちの思い込みによるものも含まれていた可能性はある。だが、悉く人間の創作であるようには、とうてい思えない。そのような、人間とは質の違うものが、そこには輝いていた。
 
新約聖書、特にその福音書は、イエスの言葉を、いまに届ける。それは、もはや物語を他人事としては届けない。私を呼んだからには、私はその中に引き込まれる。そして、私の物語と称することができるものが、ここに始まっている。
 
あなたの名前も、ちゃんと神は覚えておられる。もうすでに、呼んでいると思う。こちらのチューナーを、一定の周波数に合わせれば、必ず聞こえてくるはずだ。



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