黙示録を読み始める説教

2023年4月24日

教会には年間(年度)の聖句というものが決められることが多い。年度目標のようなものと理解されてもよいが、それが聖書に基づくものであるから、組織の目標というよりも、もっと精神的なものであるべく捉えて戴いた方がよいであろう。
 
説教者は、これまでのあり方について反省を述べた。教会用語で言うと「悔い改め」にも匹敵しよう。それは、その年間聖句というものが、最初に掲げたっきり、継続的にそれを取り上げることなく、1年間がなんとなく過ぎていくような繰り返しであった、ということについてである。あるいは、毎週発行する「週報」に印刷されているだけの、看板にもなりはしない程度のものと化していた、という反省である。
 
自分の失敗、何かしら拙かったことについて、黙っていれば誰も気にしないようなことであろうと、自らこのように公に告げる。これが教会の教会たるところなのだろう、と改めて思う。逆に上に立つ者が、自分がまるで神にも隠しておきたいことであるかのように、大切なことを明かそうとせず、あまつさえ失敗を笑いのネタにするような態度をとるとすれば、それはもはや教会の体を成していないと言わざるをえないだろう。
 
さて、そのような反省を軸にして、説教はしばらく「黙示録」を語るということが宣言された。黙示録は、なかなかまとまった語りとするに人気のない聖書の巻であるだろう。旧約聖書でいえば預言書的な役割を果たすのかもしれないが、それは「未来」のことを描いたものと理解されている。しかも、これが本当に「聖書」なのだろうか、「神の言葉」なのだろうか、と、歴史の中の教会でも、しばらく議論がなされ、「聖書」として認めるのに人々が躊躇したと言われる巻である。
 
文字通り想像すると、あまりに荒唐無稽な情景が描写されている。ひじょうに残酷な表現も多い。もし未来がそこに描かれているものと想定しても、事の起こりの順序や、そこで具体的に何があるのか、などについては、どんなに私たちが努力して読んでも、想像の範疇に入るばかりで、解釈が多様になることを避けることができない。
 
そもそも「黙示」という言葉自体が、日本語としてはこなれたものではない。時によりその原語は「啓示」とも訳される。「啓示」だと、啓き示すことであるから、神の真理が人に啓かれていくイメージを与える。「黙示」だと、隠されていたことが明らかにされる、というイメージが強くなる。厄介な言葉である。
 
後者の、隠されていたことが顕わになるという意味では、ギリシア語の「真理」という概念が思い起こされる、とも言われる。ギリシア語の「真理」は、「露わになること」のようなニュアンスの言葉だという。これにこだわりをもって自身の哲学の筋道としたのは、ハイデッガーである。「真理」と訳すべき語の中に、「隠れなさ」つまり、「隠れていたものが露わになること」の意味を見出した、と言ったのである。それは、西洋哲学がその後見落としてしまっていたために、哲学(存在論)が道を誤ったのだ、というような方向にもっていくものだったと思う。
 
神が明らかにするのか、存在自体が顕わになってくるのか、その違いは大きいが、「黙示」も「真理」も、隠されていたものが顕わになる構造を感じさせるのは面白い。イエス・キリストが、自分は「真理」であると口にし、ピラトに「真理とは何か」と問わせたヨハネによる福音書のことを思い出す。
 
だが、この黙示録を、謎解きの道具のようなものとして捉えるのはおかしいと思うし、論理的に何かを説明するテクストとして利用するようなことは、したくないと思う。せっかくこうして「聖書」とされたものである。当時これを書いた側の狙いや、読んだ側の受け取り方について、もう少し想像してみたい。恐らく、キリストを信じては生きづらかった時代ではなかっただろうか。そのときにこのような文書が出されたのは、敵に何らかの形で見つかっても分からないようにしたのもあるかもしれないが、やはり信徒を励ます目的が大きかったのではないだろうか。
 
説教者は、この黙示録を、一種の「手紙」だと解釈した。たとえば預言であれば、ペリコーペと呼ばれる、一定の切り取った部分から語る説教のようなものとして捉えることもできようが、黙示録は、その一部だけを取り出してあれこれ講釈するのではなく、ぜひ一気に全部を読むことで全体を視野に置き、手紙全体のメッセージを捉えるようにしてもらいたい、というようなアドバイスを告げた。しかし、やはりこれを少しずつ読んで説教としてこれから読んでいくとなると、ちょっとした自己矛盾に陥ることになるだろう。難しいものだ。
 
但し、書そのものとして見たときに、これは決して「難しい」ものではない、と説教者は明るく導く。言葉も分かりやすい。私たちは、いまここで、啓かれた書を読むだけでなく、当時の世界にも足を踏み入れるかのようにして、その困難な時代の中で書かれたこの黙示録を、ひとつにはその場その時での、同じ主を仰ぐ仲間たちに寄り添うようにして、体験を重ねていくとよいだろう。そして、決してそうした困難と無縁ではなくなりつつあるこの現代社会において、私たちもまた、励まされたいものである。
 
そのようにして黙示録を受け止めていくにつれ、私たちは、当時の仲間たちの気持ちが分かる、などと簡単には言うことは絶対にできないけれども、私たちなりに神と出会い、神を知る経験を求めたい。そして、それを幸いとして覚えた、自分の物語を語りたいと願う。自分だけの物語ではない。自分と神との交わりの物語である。これを私の側が語るとき、それを「証し」という。黙示録は、定型の解釈で固まっていないところがある。比較的自由に、各自が「証し」を語ることが許されるような気がする。大いに、語りたいものである。
 
なお、宮沢賢治はまだよいが、矢内原忠雄や南原繁、ティリッヒや並木浩一といった名が、説教の中に次々と登場してくる。一定の年齢の方でないと耳慣れない名前なのではないか。また、私のように本で部屋が溢れそうな人間ならばまだそれなりに触れたことがあるにせよ、こうした名前が説教であたりまえのように出せる教会というのは、どんなに皆さん、学びをなさっているのだろうか、とぞくぞくするような気持ちだった。



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