神の存在について
2023年4月15日
ある論文集的雑誌で、教育関係の発言があった。現場の理不尽さを訴えるような部分があった。その中で、ふと心に留まった言葉があった。そのおよその内容を伝える。
マスクをつける子どもたちについて:マスクは、見えないウイルスの存在の証しである。
マスクをつけろとと行政や教育の親方は言っていた。今度は、外せとは言わない。外すかどうかは自己責任だ、というのである。現場の教師はどう指導しろというのだろう。誰が何をどう責任をとるというのだろう。つけろという命令が、つけなくてもよいぞという選択になる。だが、見たところマスクを外してくる子どもたちが急に増えるわけではない。マスクなしでも大丈夫だよ、という政府のお達しは、そう簡単にはすべての人を動かすものではない。
子どもたちは殆ど、マスクを依然としてつけて登校する。マスクをするということは、見えないけれどもウイルスが存在することの証拠であると言えるのだ。
原文の論旨がこの通りであるか、は保留戴こう。読み誤りは、私の責任である。要は、マスクをするというのはウイルスが存在することを証拠立てている、と私が捉えた点に立ち止まりたいのである。
ウイルスは本当にあるのだろうか。目に見えないのに、あるかないか分からないではないか。最初のころには、ああすれば飛沫が飛びウイルスが拡散する、とさかんに報道されていたのに、近ごろは殆どそんなことを誰も言わない。そして、政府がマスクしなくてもいいのだよ、というお達しを出したら、あるクリスチャンと自称する人が、マスクをまだしているひとを激しく揶揄するツイートを公表していた。自分で物事を考えることなく、政府に尻尾を振っている姿が目に浮かび、不愉快に思った。それぞれの事情や背景もある。政府が言ったのよ、まだしてるの、愚かだね、というような態度で、ひとを小馬鹿にするような言葉を、自称でもそういう人がするのは、見るに忍びなかった。
ところで、もっとよい方面でこれを考えてみよう。目に見えないものは存在しないのか。そんなことはない。マスクをする人がいるのは、その陰に、見えないけれどもウイルスが存在するという証拠になるではないか。そういう発想についてである。
見えない神は存在するのか、しないのか。それを、物質的な存在ということに絞るとき、観測できないではないか、などとすると、如何にも科学的に見える。神がいるなら見せてみろ、と凄む人もいる。見えないから神なのだ、という理屈を、せせら笑うのである。
だが、神に祈る人がいる。これは確かにいる。神に祈る人がいるならば、それは神が存在するということを、証拠立てているのだ――そんなふうに聞こえる、マスクについてのテーゼ。ちょっと光が射してこないだろうか。
そして、さらに踏みしめておきたいこと。聖書というものは、神が存在するかどうか、ということを、そもそも全く問題にすることがなかった、ということである。いや、全く、ではないかもしれない。
信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神がご自分を求める者に報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです。(ヘブライ11:6)
いわゆる信仰者の列伝などと呼ばれる箇所である。イラスエルの先人の信仰者たちはどのようにしていたか。エノクのことを言っていたのか。神に近づいた者がいた。預言者エリヤと共に、死ぬのではなく、天に連れ去られて行った者。エノクのその恵みも、「信仰によって」と記者はまとめている。それは神に喜ばれていたのだ、とも言っている。だから、そのように神に喜ばれるためには、信仰が必要だ、という考えの流れの中にあるわけだ。ここに、神か存在することへの信仰に触れるのである。
だが、これは神の存在を証明するような範疇には入らない。聖書には、「神などいない」と傲慢なことを言う人間のことが時折見られるから、それではだめだ、という否定形のようにして、神の存在に触れているのではないだろうか。
パスカルは、神が存在するほうに賭けた方が得だぞ、と確率論を作り出した本人だから、お茶目にだか真面目にだか本心は知らないが、無神論者を説得しようとした。存在するほうに賭けていれば、たとえ存在しても存在しなくても、幸福でいられるではないか、というのである。
賭けるとか得をするとか、そうしたことを言いたいのではない。パスカルも、本音のところでは、これを論理として主張しているようには思えない。パスカル自身の心は決まっていた。有名な回心の出来事により、熱烈な神体験をしたのであり、そこから燃えるような信仰を懐き続けることになるのである。
存在するから信じる、というような言い訳は、やめておいたほうがよい。存在すると信じることから、別世界が拓ける。光が射してくる。目の前が、明るくなる。若かろうが、高齢であろうが、人生が変わる。神は、あなたを捕まえて離さないからである。