高校受験のための国語

2023年4月11日

訳あって、昨2022年の後半から、中三生の国語を担当することとなった。もちろん経験はあるが、受験生にとり、受験間際に担当者が変わるというのは、不安になるのではないかと懸念された。私の配慮は、そこに置かれた。受験生の、メンタルヘルスである。
 
その上で、受験のテクニックを、存分に伝えなければならない。しかしこれもまた、ここまでやってきた彼らのやり方を否定して、このようにしろ、と命ずるわけにはゆかない。特に優秀なメンバーは、自分のやり方でこれまでうまくやってきたに違いないのだ。
 
こういうわけで、心理的な方面にも、気を使いながら、指導をしてきた。
 
福岡では、概して公立高校の志望が多い。旧藩校など歴史と伝統のある高校があり、それをライバル視する形で、他地域の高校も磨きをかけてきた。広い区域の中で、ある程度ランクができることになるし、それはおもに九州大学という目標におけるランクだと考えられている。地元の公立高校のいわゆるトップ高たちは、九大合格者数を大いに気にしているのである。
 
公立高校を受験するための入試問題は、福岡県内では概ね共通である。従って、そのトップ高を目指すクラスのメンバーは、可能な限り満点を狙う勢いをもって修練を積んでいくことになる。ただ、国語は満点をとることが難しいので、とにかく高得点をどうやって取るか、がポイントとなるし、そこまでの得点を必要としない受験をする生徒にとっては、確実に点数が取れるところを見出す対策が必要となる。
 
中三となると、やはり目の色が変わるというのは本当だ。だが、地元トップ高に合格するような生徒にしても、見ていて思うのは、語彙力の乏しさである。こちらが、通じているだろうという思い込みで話していると失敗することは、経験的に分かってきた。丁寧に、言葉の意味一つひとつを伝えていくことから始めなければ、受験のテクニックも何もないのである。
 
その上で、文章で筆者が言いたいこと、伝えようとしていることを把握するためには、生徒の側にも、一定の「思考の溝」ができてなくてはならない。書き手の思想が流れてくる、その水を自分の既成の溝に流し込むことができたら、言いたいことは把握できる。だが概して、生徒の側に、そのような溝がつくられていない。この思考の流れは、多数の読書の経験によってでしか、なかなか造れないのであるが、読書の量も質も、殆どの生徒が乏しい。だからこそ、語彙も多くないのだ。
 
語彙というのは、もちろん一般的な意味においても知るべきものである。古くさい言葉など知らなくても生きていける、というのは本当だが、昔の習慣や風俗を知らないこと自体はやむを得ないにしても、もはや生活環境が異なるため、驚くほど説明が通じなくなっている。「縁側」も「敷居」も分からない。「ビフテキ」が通じない。英語を小学生から学んでいるので「ビーフステイク」でやっとコミュニケーションがとれるのである。彼らが生まれる以前の人の書いた文章が全く読めなくなるのも、時間の問題である。
 
けれども、より深刻な問題は、抽象的な思考ができなくなる、というところにあるようにも思える。その「抽象」や「具体」という語について、中学生は自分の理解を言葉にすることが概ねできない。小学生には抽象的思考ができないことはある意味で当然であるが、中学生はそれを始める時期であり、現に高校入試問題には、基本的なレベルではあるにしても、抽象語が使われている。授業で「画一的」という言葉を持ち出しても、中学生には殆ど誰にも伝わらない現実があるのは、何らかの思考をするという畑が耕されていない、というように言っても過言ではないだろう。
 
しかも、語彙は一意とは限らない。文脈というものもあるし、そもそも筆者自身が特別な意味合いをもって使う言葉もある。読解を教えるには、「 」はそうした特別な意味だ、ととりあえず教えておくが、さらにいえば、そうでなくても、同じ語であっても、使う人によりその定義が異なるという厄介な事情がある。哲学の本を読むときに、この事情を知らない人は、残念ながら全く読めないということになる。
 
できる限り、その文章における、筆者の決めた定義や、筆者がこめた語義というものを、知っていくように読まなければならない。そうなると、言葉を頼りに理解しよう、という読み方が頼りならないものであることが分かる。
 
元々、その書き手が、何を言いたいのか、ということが、現れた言葉に先行するのである。
 
だから、それが最初は察知されないままに、不安定な読み方をしなければならない事態においては、「何故この人はこんなものの言い方をするのだろうか」という問いかけと共に、読み始める必要があるのである。また、この問いかけで、読み進み、理解しようと努める必要があるのである。
 
それは、究極的には、この書き手はどういう人間なのか、というところへ届くとよいのだが、あいにく受験の国語は、そういうことを気にする暇はない。さらに、いっそう厄介なことに、書き手と生徒との間に、出題者という第三の人間が関わってくる。よく「出題者の意図」が話題になるが、確かに受験のテクニックとしては、「何故この出題者はこんなものの言い方をするのだろうか」とこそが、肝腎であるのだ、とも言えることになる。
 
但し、高校受験では、大学受験とは異なり、読解の基本を試す目的が明確にある。だから、この「出題者の意図」というのは、最小限の関心事であってよいようにできているように見える。公立高校の問題は、その点さすがなかなかよくつくられている。一般の目に触れるために、義務教育を終えようとしている子どもたちに、妙な深読みをさせるような問題を出すわけにはゆかないのだ。概して、安心して、筆者との一騎打ちを挑んでよいと私は思う。
 
本を読むことにより、そうした問いを考える準備ができるであろう。語彙も豊富になる。メディアのように、時と共に流れて消えてゆくのではない本というメディアのメリットは、自分のペースで立ち向かえるところにある。またすべての情報が与えられるのではなくて、「行間」への配慮や想像力が育まれることになるのもよい。いまは触れる暇がないが、この想像力の絶滅的な危機というのも、昨今の重大な問題となっているはずである。
 
さて、本がよいという意見を変えるつもりはないが、テレビの報道機関も、質のよいものは利用できる。多くのよい情報に触れることを可能にするチャンスでもあるから、丁寧な解説のなされる番組などは、決して悪いものではない。むしろ、ラジオでもテレビでも、もっと利用すべきだ、という意見の教育者もいる。私も一定の条件付きではあるが、その意見に賛成である。無責任な垂れ流し的なコメンテーターではなく、しっかり練られたものを伝えてくれる解説委員の語りは、信頼も置けるだろう。
 
さらに、問題を共有できる人と、話し合うというのもよいことだ。自分から見たらAが正しいとしか思えない、という場合でも、他者はAの難点を知っているかもしれないし、Bの美点を教えてくれるかもしれない。見るアングルが違えば、ものは違って見えてくるものなのだ。自分の立ち位置からしか見えない世界ではなく、広い視野を得るための機会ともなるであろう。
 
抽象的なアドバイスとなったが、子どもたちには、言葉というものを大切にして、世界を広げてほしいと願う。狭い仲間内だけで生きていくのであれば、言葉の数はさほど必要ではない。半径数メートルだけで話が通じればよいのなら、苦労して言葉を増やしていく必要はない。だが、その言葉というものを通じて初めて、人間はものごとを考えるということができる。また、新しい他者との出会いを経験することができる。言葉に、うんと関心をもってほしいと思う。
 
さて、これらは、もちろん聖書という言葉の宝庫と、神との出会いという次元にも関与するものであると私は思っているが、ここから後は、多くの信仰者にとっては、もう言わずもがなの話であるから、蛇足はつけないことにする。
 
文章力のない人は、せめて語る言葉で、熱いハートから語れば、それはそれでよいのである。どちらもない人は、沈黙するしかないことになるが、実際には、そうではないようだ。



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