権威ということ
2023年2月6日
「何の権威でこのようなことをするのか」。祭司長や律法学者たちが、神殿で民衆に福音を告げ知らせていたイエスに問うた。権威問答というタイトルがついた箇所である。この直前に、イエスが神殿で大暴れをして、商人たちを追い出したという記事がある。何の権利があって、そんなことをしたのか、というようにも聞こえる。
イエスが「大暴れ」と言ったが、ルカの筆致は穏やかである。ただ「追い出し始めて」としか書かれていない。これは、「祈りの家」としての神殿を「強盗の巣」にしたからだ、とイエスは追い出した理由を口にした。怒って言ったのかどうか、ルカは隠している。この「強盗の巣」という表現を重く見て、これは貧しい人々から搾取をすることがいけないとイエスは言っているのだ、などと説明をした人がいる。言うまでもなく、思い込みである。
さて、この「権威」というものが厄介である。当人が自分で権威を掲げることができる場合もあろうが、大勢の一般人たちが誰かに権威をもたせてしまう場合もある。まるで共同幻想のように、次々と権威の塔を築き上げるような真似をしてしまうのである。独裁者は、単純にその人物だけが権威を揮ったのではない。どうであれ、人々がそれを支えた側面があるのである。その「人々」というのが、万民であるか、一定の一部のグループや組織であるのか、それもまたいろいろであるかもしれないけれども。
イエスが、人間からそうした権威を必要としたのではなかったことは確かである。父なる神から、というのが聖書の筋道となっている。では、イエスに従うキリスト者には、何か権威があるだろうか。基本的には、キリスト者はこの世では顧みられることもないほどに、低い者である。この世で高められていることが好ましいとは考えられない。
この問答でイエスが逆質問したのは、洗礼者ヨハネの権威についてだった。それは上から与えられたのか、下から、即ち人から与えられたのか。これは、どちらを肯定しても、祭司長サイドは窮地に追い込まれる問いであった。そのためイエスにそれ以上問えなくなったのだった。このように、質問された側が逆質問するというのは、当時の論法としてはよくあることだった、と聞いている。一休さんの物語でも、屏風の虎を捕らえよと迫られた一休さんが、その虎を先ず出してくれ、と要求した話があった。
キリスト者はこの世では低い者。だが現実には、キリスト者仲間の中でも、上に立てられる人がいる。教会役員なり牧師、教団の指導者、箔が付くような立場はいくらでもある。民主社会だと言って選挙により選出されることもよくあるが、これらが人間本位のやり方で就いたのだとしたら、不幸なことが多々ありそうな気がする。
それは正に、人からのものとなってしまうからだ。人からのものでしかないのに、そのような地位ある立場の人には、勝手に「権威」ができてしまうわけである。権威のある人の言うことは、正しいというふうに見られやすい。人々は、集団で思考停止に陥ってしまうのである。その権威者を正しいとしておけば、一般人のほうには責任はなくなると思われている。何かあっても、権威者が責任を取るのが通例だからだ。そしてこの図式が、先に挙げたように集団で恐ろしいことでも正義としてやってしまうことを可能とする。
説教者は次のように指摘した。神からの力に従うなどとは実は考えていない者たちがいて、真実には目を瞑り、自分に都合の悪いことがあったとしても、知らぬ存ぜぬを通すのである、と。
そのとき引かれた言葉は、キング牧師の「最大の悲劇は、悪人の圧制や残酷さではなく、善人の沈黙である」という言葉であった。キリスト者へのメッセージである。もちろん私たちが善人なのだ、と言っているのではない。物事の本質を見る目と心を与えられている者が、危険と誤りに対して沈黙しているわけにはゆかない、ということである。
しかし、その危険というのは、無責任な大衆が、無邪気に悪を支持し、悪に加担していくという自覚をもつことなく、しかも自分は正義であると思い込んでしまうことなのかもしれない。ここを見ておくことも大切なはずなのである。
誤った選択をしたために、崩壊への道を辿っている組織がある。その危険に気づこうともしないままに進めば、間違いなくそうなるであろう。私はそれを阻止するために闘うという方策は採らなかった。だが、見て見ぬ振りをすることはしない。上からの力で目が覚める人が現われて、その声を重ねれば、最悪の事態は防ぐことができるという希望だけは、まだもっているからだ。