希望

2023年1月1日

大晦日の夜にはそれなりにすることがある。ただ、紅白歌合戦は聞きながらするようにしていたので、テレビは時折熱心に見る、というような見方をしていた。最後のほうで、ずいぶんなオヤジたちがギターのセッションをして、メッセージを送っているのを感じた。こうしたものが届けばよいが、と思った。
 
そこへ行くと、この数年、トリを務めるMISIAには、見入るしかない。毎年心を掴まれる。今年も、その歌唱力はもとより、伝えたい歌詞がぐいぐいと押し寄せてくるのを覚えた。どこか神の愛あるいは慰めのような言葉が続く。矢野顕子の詞だというが、MISIAはそれを自分の心として伝えていたように感じた。きっと、作詞者と熱い対話を繰り返して、歌の意味を互いに作り上げていったのだと私は想像する。
 
教会の礼拝説教は、神の言葉としての聖書を、説教者がその人なりの心を以て伝えることを思う。説教者が自分勝手に話すのではない。聖書の作者としての神と、熱い対話を繰り返して、説教を作り上げるものであるに違いない。そうでないと、神の言葉は伝わらない。少なくとも、その語る者には伝えることができない。
 
「希望のうた」という題のその歌が、希望を伝えようとしていることは明らかだった。歌唱からもそれは伝わってきた。良い歌だと思った。そのように聞いていたら、私は後半出て来た歌詞のために、ネット的表現を使えば、涙腺が崩壊した。「そうか、そうだったのか」と呟いていた。何故それまで気がつかなかったのだろう、と自分のバカさ加減に呆れた。
 
この紅白歌合戦のテーマは、「LOVE & PEACE−みんなでシェア!−」というものだったではないか。ウクライナの人々への切ない思いと、戦争を仕掛けるものへの憤りがそこにあって、それでも希望への強い決意のようなものが、私の心にグサリと差し込まれてきたのだった。
 
もちろん、コロナ禍で苦境に立っている人たちへのメッセージでもあるだろう。一人ひとりが置かれた困難が星の数ほどあるとして、そうしたすべての人のための歌でもあったことだろう。だが、この歌はやはりどうしても、ウクライナを誰もが思い描くように、響いてくるものであった。私の涙はしばらく止まらなかった。
 
この冬、一冊の絵本を購入した。エウゲーニー・M・ラチョフ裂作の『てぶくろ』である。小川洋子さんが本を紹介し読み解くラジオ番組「メロディアス・ライブラリー」で、これを2022年1月に紹介していた。おじいさんが落とした手袋を、動物たちが見つけて次々に……というだけの、短い単純なお話である。
 
これは、ウクライナの民話をもとに作ったお話なのだそうだ。動物たちも、ウクライナの民族衣装を着ている。小川さんが選んで放送で話したのは、ロシアがウクライナに攻撃を実際に仕掛けるより以前だったことを思うと、小川さんの慧眼に敬服せざるを得ない。
 
実はこの大晦日に、私は二度泣いている。もうひとつは、午前中に買い出しに行ったときのことだ。スマホに連絡が届いていた。ある方からのメッセージであった。詳細はここでは明らかにしないが、ずいぶん以前に私がささやかなものを差し上げた方であった。その方はいま病と闘っている。特に連絡をし合うような関係ではなかったが、SNSの中でつながりだけはあったので、私もその人の言葉にいつも励まされていた。もしかすると、その人の方が、他の人々から慰められるような存在である、と普通には見られるかもしれないが、私はむしろ、その方のほうが、凡人が気づかないようなことを知らせてくれていることで、人を励まし、原点にかえらせるような、すばらしい働きをしていると信じて疑わなかった。
 
メカニズムはご紹介できない。ただ、私は胸が詰まり、涙を流した。店の中で、みっともなかったかもしれないが、泣けて仕方がなかった。帰宅して、返事を送った。その方もキリスト者である。聖書の言葉と、『星の王子さま』からの言葉を伝えた。私がこのクリスマスに、教えられた言葉でもあった。
 
大晦日に、二度も泣いた。人の心には、愛が神から与えられているということ、そして愛は希望をもたらすということ、それをつないだのが、その涙であったということに、気づかされたのであった。


※矢野顕子が、元夫への思いをこめて制作したに違いないことは、後から妻に教えられた。全くその通りだ。やはり私はぼんくらである。



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