新規感染者数は実はもっと多い
2022年12月24日
新型コロナウィルスの新規感染者数が、またもや増えてきている。否、もう少し正確に表現しよう。「新規感染者としてカウントされた人の数」が、増えてきている。
医療機関や保健所が、規定に従ってカウントした人数が、日々発表されているということに、一般の人々はあまり注意して目を向けていないだろうと思われる。
専門的なシステムを解説できるほど、私は通じていない。ぼんやりとした掴み方で申し訳ないが、医療機関の感染者報告が、簡素化されているのは確かだ。それはひとえに、関係機関の事務的な負担を軽減するためである。発生届け出の項目が少なくなっているのだ。これで医療現場は少しだけだが、楽になった。2022年秋から、保健医療の現場が、崩壊してしまわない程度になんとか動くようになった。
これにより、感染者と感染経路を漏らさず把握する事務的な義務からいくらか解放され、現場は治療と指導に力を向けることができるようになっている。もちろん、ケースにより差異はあり、保健医療の関係者は、この3年間、よくぞここまでという程、献身的に、生活その他を犠牲にして、働いておられることを、軽く見ることはできない。
さて、その具体的な仕組みについては、門外漢が無責任なことを吐いてはならないため、詳しい点は各自お調べ戴きたいのだが、この報告事務の軽減化により、それまでは起こらなかった事態が、見えないところで発生することとなった点だけ、確認しておきたいと思う。
電話で発熱外来に相談がくる。するとすべての人が検査をして、陽性かどうか調べる、というのが従来のあり方であった。しかし今では、たとえば家族に一人陽性者が出たとすると、症状が出ない他の家族は、家で様子を見ていてください、という指導で終わるケースが現れたのである。しんどいのに、わざわざ病院へ出向くこともない、という措置で、検査をすることなく自宅待機をしてもらう、というケースが多々あるのである。
その家族は、一定の期間自宅待機をする。その後は、社会復帰が可能になる。へたに途中で検査をすると、陽性反応が出てからまた何日間、という制約がつくので、もう検査を受けることなく、家にじっとして、家族感染が出た時点からの日数で社会に戻る、というほうがおそらく得策になるのである。
そうなると、その家族の中には、期間内でも出歩く人がいる可能性も少なくないことが推測される。これは自主的な待機なのであるから、信用問題である。街や電車の中に、いわゆる濃厚接触者がいないとも限らない、ということを想定して然るべきではないか、という懸念がどうしても残ってしまうのではないだろうか。
この、検査を受けなかった家族については、病院は報告の義務がない。高い確率で感染しているだろうという見通しはあるものの、検査をしていない以上、感染者数に数えることはできない。こうした人々をもなんとか漏らさず調べようとしていた時期とは、もう異なるのである。
従って、ニュースで現れる「新規感染者」というのは、実際の新規感染者全体の一部の数字に過ぎない、ということになる。それがどのくらいの割合であるかは、全く分からない。が、何割増しかで、真の「新規感染者」がいることは確実であり、おそらく調べれば陽性反応が出るだろう、という人々がいるのである。
致死率自体も、当初よりはいくらか低くなっているため、容態が悪くなれば治療を急がねばならないけれども、そうでなければ、通常のインフルエンザと同じような対処の仕方で賄うような形になっている、と考えても、大きく実情と違わないであろうと思われる。
もちろん、感染力はインフルエンザの比ではない。亡くなる方も、感染者数の絶対数が多いために目立たないが、コロナ禍の初期と比べると、実数として格段に多い。
なんとか経済を悪くさせないために、政府はしきりに、マスクを外せともちかけているが、以上のように、ウイルス自体がそこかしこにうようよしているはずの実情を鑑みるとなると、自衛をどうすべきかは、明らかであろう。どうにも、お上の言うことには、アンチも含めて、人々は敏感であるため、一方では気が緩み、一方では政府に刃向かう建前を言いつつも、平気でマスクを外して楽しんでいる様子をSNSで拡散する、奇妙な人々も散見する。
ようやく最近になって形だけ「祈りのリスト」に「医療従事者のために」と載せたものの、毎週同じ言葉を置いたままで、その礼拝ではそのための祈りが一言も出てくることのないような教会さえある。「知は力なり」とは、近代思想の幕開けに放たれた言葉であるが、「無知」は、何の力になるのであろうか。
いずれにしても、数字の意味は、あらゆる現場でよく考えなければならない。詐欺的な手法は、数字を巧みに使う。それに抗うためにも、数学を学ぶ意義は確かにあるのだ。数学と国語は、やはり私たちの基礎的な学びなのである。そして、自分の頭で思考すること。哲学こそその訓練となるのだが、いまさら哲学など、と思う方は、この数学と国語と思考、ここに重きを置いて戴くことをお勧めする。
そうでないと、「信仰」ということすら、最悪の歪みへと使われることになる。そのことは、2022年に多くの方の目にも明らかになったはずである。