神よ、どうして
2022年12月22日
2022年の冬至は12月22日である。今日からは、昼の時間がひたすら長くなっていく。「冬来たりなば春遠からじ」という言葉があり、苦しい情況の中でも、人はなんとか希望を見出そうとする。だが、一旦始まった戦争は、終えるのが困難だと言われるとおり、ウクライナの戦火は収まらない。報道を聞くばかりの私たちが忘れている間も、逃げ惑い、大切なものを失い、また命を落とす人々がいるのが現実である。
神よ、どうしてこのようなことが――きっと、歴史上無数の人がそのように叫んだことだろう。但し、それは神を信じている人の言葉であって、「神がいるのなら、どうして」という疑問が、多くの人に起こるのではないかと思われる。いや、それを通り越えて、「だから神などいるはずがない」というところにまで、突き進んでいく場合もあろうかと思う。
神がいるのなら、どうしてこんな不条理なことが起こるのか。そのような問いそのものを、否定することはできない。ただ、その不条理なことを、私が起こしているのだ、という視点を全く欠いたままに、神というものだけが悪いかのように言い放つことは、少なくとも私にはできないものと考えている。
そのような神を信じるとよい、と記しているのが「聖書」である。聖書は、受け取り方によっては、実にそりの合わないことに満ちている。私たちの求めるもの、常識といったものと、悉く合わない、と解する人もいる。それでも、旧新約聖書は、千年単位の長きにわたって書き綴られた文書が、なんらかの筋道を通してまとまったものである。描かれた歴史は、この世界の始まりからである。もちろん、それを神話と受け止める向きもあるだろうが、そこそこ人類史の物語ができている辺りから始めてみても、何千年の歴史がそこにある。
それなりに、ではあるが、このスパンでの筆記に整合性が見られるというのは、奇蹟のようなものではないか、と私は思う。
それがいま世界をリードする思想の基盤のひとつとして位置していることは、間違いない。イスラム教にしても、旧約聖書がベースにあるわけだし、神そのものとしては同じ神だ、と見てよい、とも考えてよいものらしい。
人が平和であるように、とそれは求める。人々の間に平和や愛という理念があるとすれば、やはり聖書に描かれたもののもつ意味は大きい。それは、私たち一人ひとりにも及ぶ。少なくとも近代以降、個人というものが際立っており、信仰は個人的に受け容れるものとなってきた。
神よ、どうして。そう問うあなたのために、神は聖書を通じて語りかけてくる。そう問うあなたのために、イエスは十字架に架かったのである。もし、そのように信じたならば、窓が開かれたように、新しい風が吹き込み、見たことのない景色が目の前に現れることだろう。私は、体験的に、それを証言する。