クリスマスの恵み
2022年12月20日
クリスマスには、定番の聖書箇所というものがある。毎年聞くので、新鮮味がなくなっている信徒の方もいるだろうかと思う。もう知っているよ、またあの話だ、そんな気持ちが底にあることを、私自身否定できない。だが、できるだけ新しい光を受けたいという思いは懐くように心がけている。
というより、説教というものは、新しい光をもたらすはずのものなのだ。
たとえば、こういうものも現実にあるようだが、聖書を一行ずつ読み上げては、その意味を解説し、やがて社会的な話題などを関連されて、私たちも何々しましょう、というようなものは、説教とは呼ばない。しかも、その「私たち」の中に、語る者自身が含まれておらず、他人事のようにしか話せないとなると、聞くだけ時間の無駄だという気がする。
しかし、聞く者を聖書の現場にひきずりこむ語りは、聞く者を神と出会わせる。それは、間違いなく、語る者自身がその現場にいるからである。神と出会っているからである。そこから発される言葉は、聞く者が、神からのものだと受け止めることになる。だから、それは命の言葉である。
クリスマスの物語には、マリアベースのルカ伝と、ヨセフベースのマタイ伝とがある。説教者は、その日後者を取り上げた。女性の説教者が、父親となる男の立場を語った。たまたまその日、私の綴った「読む説教」は、にも、ヨセフを取り上げていた。初めて父親になったときのことを思い返して、語り始めるというものだった。説教者も、その「父となる」ことにひとつの焦点を当てた。
それは、ヨセフだからこそ向けられたものであったのだという。そう、私たちもある。「これは自分にしかできないことだ。だから神が与えたのだ」と。
気をつけなければならない。これを他人に向けてはならない。不幸な事態に陥った人に、「神があなたにならできるとこの試練を与えたのだよ」となどと軽々しく言ってはならないのだ。だから私の思考原理のひとつは、このような「自分の立場」を顧慮する、というところにあるといえる。
ともかく、神の使命を受けたとなると、それを「神が私を必要としている」という意味で捉えることが、私の力になる。説教者の言うとおりだ。だがまた私は、「神が私を信頼している」というところにまで、戻って捉えたい。もちろん、この「信頼」は、私が神を「信仰」するというときに使う言葉と、ギリシア語としては同じものである。この、神と人との、レベルは違うけれども相互的な対話のような交わりが、実はすべての「信」の根幹にある、というふうに、私は捉えている。
ほかにも、説教者の指摘には、私の心に留ったものがいくつもある。たとえば、ヨセフは正しい人であっただけではなく、正しい人へと導かれていくのだ、という内容。聖書には、ヨセフは正しい人であった故に、マリアを護ったというような流れになっているが、これをありきたりの原因結果に収めてしまわず、ヨセフがこの後、マリアとの生活の中で、正しい人に導かれていくのだ、というわけである。
その意図とは違うが、私はふと思い起こした。親があってこそ、子は産まれる。だが、子が産まれたことにより、2人は親になってゆく。これは実感としてよく分かる。ヨセフは最初から完成された正しい人というわけではなかった、というのは肯ける。このような視点を提供できるのは、説教として非常に価値がある。ありがたいものだ。
そのヨセフの過程では、「イエスの名」が鍵を握るらしい。説教者が言ったのは、ヨセフには「イエス」という名が与えられていたが、それをマリアと2人で口にすることで、主の救いが及び、力を与えられたに違いない、ということである。神の「名」は特別な意味をもつ。私の頭に浮かんだことと関連させると、このイエスという「名」が、2人を親にしていくということになる。名は体を表すというが、イエスという名がそこにあることで、イエスが共にいるという事実を明らかにすることにもなるだろう。こうして、インマヌエルのための見えない伏線が置かれていることにもなるのだ。
信仰者は、このような見えない意味を説教者の語りから気づかせてもらえる。それが信仰の成長にもなる。そしてこれが、クリスマスの説教がありきたりのものになることがない、というひとつの証明にもなるのである。
インマヌエルの恵みは、聖書の凡ゆるところにつながる、不思議な魅力がある。神が共にいる。説教者は、神が共にいるということについて、ひとつのイメージを伝えた。それは、光にまつわるものであった。光が来る。光に照らされると、私たちは自分の罪を覚る。罪が明らかになる。そして私たちを打ちのめす。しかし、光はそれで終わりにはしない。闇を明らかにしたということは、光も確かにあるということを意味する。その光が、私たちの内に入ってくる。私たちの内に、イエスが生まれる。光は私たちを内から照らし、私たちは新たにされるのだ。イエスは私たちの内に生まれて、確かに共にいるということになる。
ただ、私たちがそのことに常に気づいている必要はないだろう。無理な話だ。けれども確かに、神は共にいる。このような内なる神、内に生まれたイエス、それがクリスマスのイメージである。クリスマスに、ひとは新たな時の始まりを知る。初めてそのような新しい時を刻む人も、現れて欲しい。すべてが新しくなった、という喜びに初めて気づく人が、このクリスマスに現れますように。しかし同時に、この私もまた、改めてその新しさがあることを経験する者でありたい。何の力もなく、地べたを這いずり回っているだけの者ではあるけれども、光は来たのだ、ここに神がいるのだ、という勇気を与えられて、新しい時を創っていく者でありたい。
説教者もまた、これと似た景色を、しかしそれ以上に素晴らしい景色を、見ていたからこそ、これを語ってくれたのだろう、と私は推測し、確信している。