ビューティフルはすばらしい

2022年12月16日

菊池桃子のラジオ番組を毎週聴いている。ちょうど出勤前の準備の時刻でタイミングがよいというのもある。アレクサと呼べばつないでくれるし、声をかければ切ってもくれる。かつてのアイドルは、近年再び歌手活動もしているが、それよりもここ10年は大学の先生としての立場がよく知られている。よく学ばれた人だ。昔好きだった倉田まり子もまた、不幸な出来事の後、ビジネス関係の学びで大きな存在となり、同じくいまは大学の先生をしている。
 
菊池桃子は年齢を重ねても、大きく変わった印象を与えないように思う。女優としての力も朝ドラで見せてくれていた。その声の魅力もあり、物腰の優しさと、話の品の良さは、ラジオを聴いていても、心安らげてくれる。同様にいま若手でそのような意味でピカイチなのは、早見沙織だと私は決めつけている。
 
菊池桃子は、離婚の経験もしたが、それにも増して、子育てで苦労があった。しかしラジオでは、そのことも明るく語る。午前中のその番組は、爽やかな、明るい風を送ってくれるので、私も憂鬱な出勤を、どれほど前向きにさせてくれているか、計り知れないものがある。
 
ラジオを聴かないという人もいる。若い子たちも関心がないだろうと思う。深夜放送と称して、ラジオがあってこその勉強をしていたような世代とは、大いに違うわけだ。テレビなり動画なり、視覚を奪われるものは、別の作業ができないけれども、ラジオだと、「ながら」族になれる。お陰で、何かしら音楽がなければ原稿のひとつも書けなくなってしまったのが、いまの私である。
 
菊池桃子のその番組では、懐かしい曲を、エピソードつきでゆっくりとかけてくれる。そういうの、あったなぁ、と膝を打つこともあるし、そうだったのか、と今さらながらに知ることもある。先日は、「美」についての曲が特集されていた。そこで、彼女も感動深く語っていたのだが、私も心を揺さぶられた曲がかかった。
 
まず、「ビューティフル・サンデー」である。ダニエル・ブーンが歌うのが元の曲だが、日本では数年後に田中星児の歌でよく知られるようになった。「すばらしい日曜日」は、暗いところのない、実に爽やかな歌詞をもつ。原曲はラブソングであるが、日本語の詞は、子どもにも楽しく歌える内容になった。
 
その日本語では、「きっと誰かが僕を待ってる」と結ぶ。すばらしい日曜日に、僕を待っているのは、原曲では彼女だが、日本語だと、教会で私たちが礼拝する神であってもよいような気がする。「歌おう高らかに」と促す歌詞は、日曜日の礼拝を、奇しくも暗示しているようで、頼もしいではないか。「明日に架ける橋」も、近年ゴスペルと見なされるようになっているし、「You've Got A Friend」も、新約聖書の文化ならではのときめきを感じさせるものである。
 
もうひとつ、番組でかかった曲で心に残ったのが、「ビューティフル・ネーム」である。1979年の国際児童年の協賛歌としてつくられ、ゴダイゴのタケカワユキヒデが作曲した。歌詞は英語が奈良橋陽子(説明は省く)、日本語訳が伊藤アキラ。ハメハメハやはたらくくるまでお世話になったが、私が認識したのはリメイクでない方の「うる星やつら」のオープニング曲だった。2021年に惜しまれつつ亡くなった。
 
どの子にも、すばらしい名前が一つずつつけられている。そこに命が光っている。名前は燃える命である。すばらしい名前を呼びかけよう――
 
涙が出そうになる。そして、神の「名」を崇めるキリスト者の礼拝もそこに重ねたいし、神は私たちの「名」を呼ぶのだということも、強く受け止めたいものである。それから、これら二つの「ビューティフル」というタイトルが、どちらも「美しい」ではなく「すばらしい」と歌われているところにも、注目したい。私たちが「すばらしい」と口にするのは、どうしても「wonderful」になりそうなのだが、それは多分に「beautiful」でよいということなのだ。
 
歌の背景やその歌詞を、改めて見つめる機会が与えられると、いまにして大きな感動に包まれることがある。聖書の言葉もまた、きっとそうなのだ。自分の思い込みで聖書の言葉を操らず、今日もまた、じっと聴き入ってみたいものだ、と思わされるのであった。



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