朝ごとに夕ごとに

2022年12月8日

スポルジョン、あるいはスパージョンとも表記されるが、19世紀イギリスに偉大な説教者がいた。その説教は、語られる毎にイギリス各地へ印刷され、届けられた。旧約聖書の「幕屋」の名をもつ教会には、何千人といつも詰め寄っていたという。
 
すでにこの人のことは何度かご紹介しているので繰り返しはできるだけ避けるが、やはり、その才能たるやただものではなく、十代にして人々を感動させる説教を語っていたというから、驚くべきものである。神学校を設立はしたが、自身はそうした教育を受けてなどいない。
 
日本でもっと説教集が発行されればよいのに、と私はいつも思っている。英語ではいまなお多くの発行が続いているのだ。その服装やゼスチュアなどが批判されたこともあるそうだが、そのような点も含めて『説教論』が書かれているので、説教に携わる者は、一度は読まねばならないだろうと思う。「説教」についての本は、ドイツ系にも敬服すべきものがあるが、英米系ではこのスポルジョンと、クラドックのものとは、外すことはできないだろう。
 
スポルジョンの『朝ごとに夕ごとに』は、朝夕の黙想に相応しい、聖書の言葉からのショートメッセージ集である。朝だけのものも売られているから、用途に合わせて求めることができる。最初のものはいまから半世紀以上前に出されている。内容としては、カトリックを敵視しする、19世紀当時の激しい口調もよく見られるが、聖書のひとつの言葉から自由に連想するその語りは、きっと読者の霊的な確信を揺さぶることだろう。
 
聖書を講解するタイプのものではない。聖書本来の意味からすると、誤った解釈によるところがあるかもしれない。しかし、その一言から刺激される霊感の自由な運動は、信仰者の魂を確かに揺り動かすものであろうと思われる。
 
ある箇所では、レアとラケルの箇所の短い句が掲げられていたが、スポルジョンに慣れている私も驚いた。ヤコブが愛するラケルを与えると言いながら、だまし討ちのようにレアを先に結婚させた形にしたことに、霊的な意味がある、とスポルジョンは言うのである。
 
その黙想は、ラケルの父ラバンの狡さを肯定したくはない、と言いながらも、この順番に意味を見出していた。つまり、何かしら望まないこと、辛いことが先にある、というのである。望むものが得られる前に、経験しなければならない苦しみがある。然して後に喜びが来る、という順序を学ぶことができる、というのである。
 
その解釈が、聖書の適切な解釈であるのかどうか、そんなことは問わない。問う必要がない。ああなるほど、と思わされ、信仰者たる読者が励まされるならば、その聖書の言葉が、命となるからである。
 
正しい聖書の理解、ということに拘泥する人がいる。研究者として、そうした学的な探究は実にありがたいものである。しかし、聖書は一人ひとりに、生ける水となって注がれる。それは、いま研究が及ぶ限りの古代語の意味や社会環境に基づくものではないだろう。まして、研究者の信念や思い込みに従って、解される程度のものではないはずである。
 
スポルジョンに倣い、いまの自分に与えられた聖書の言葉が、自分のうつむいた顔を上げさせ、笑顔を与えてくれるならば、それはそれで命の言葉としての聖書の大切な役割を果たすことになる、と捉えたいと思う。もちろん、それを万人への真理だとして押しつけるようなことは厳に慎むべきである。自分と神との関係の中で、その言葉が意味をもって臨み、自分の力となるのであれば、誰も何も介入してくる必要はない。介入してくるのは、神だけで十分である。
 
朝ごとに夕ごとに、今年はこれを頼りに過ごしている。実はずいぶん久しぶりに、これを選んだ。心の温度がちょっと上がるようなひとときを与えられ、感謝している。



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