聞こえない声

2022年12月6日

バスに閉じ込められたらクラクション。不幸な事故が、近年福岡で、そして静岡で起こった。命を失うに至らない同様の事故は多数あるのだろうと推測される。クラクションを鳴らせば、存在を知らせることができる。大人だったら簡単に思いつくはずのことも、経験のない子どもたちにとっては、思いも寄らないことなのであろう。
 
バスに閉じ込められたらクラクション。これを教えるところが、静岡の事件から急増した。やはり関東に近いところでの事故でなければ、東京には響かないのか、などと僻んだ見方はすべきではないかもしれないが、福岡での事故をもっと重く見ていれば、こちらの子は助かる道があったのでは、と思うと、悔やまれる。
 
しかし、バスのハンドルのクラクションをちゃんと鳴らすには、なかなかの力が必要だとも言う。もしかすると、鳴らせばいいのかも、と頭では分かっていても、その行動に出られないような子どもが、いるかもしれない。練習の風景では、ハンドルにお尻を載せて鳴らすということも教えられていた。
 
SOSを発すれば、誰かが助けてくれる。それが信じられるならば、何にも優先して、それをすればよい。しかしながら、そのクラクションを鳴らせない子どもたちがいる。『「助けて」が言えない 子ども編』は、特に子どもを中心に据えているが、デリケートな心を、読んでいて痛みを覚えるほどに、教えられる本である。これは「こころの科学」という、日本評論社の雑誌の2022年11月号の特別企画である。2018年には、これの大人版が出されているが、こちらはいま入手しづらい情況になっている。いずれ見られたらと願っている。この雑誌は、現場からの切実な声をたくさん聴くことができて、価値あるものだと思っている。
 
しかし子どもたちがどうして「言えない」のか。大人は、言えばいいのに、と気軽に口にするかもしれない。しかし大人もまた、いったいそうした悩みをすぐに口に出せるであろうか。――言えやしないだろう。しかもこの子どもの場合、大人が子どもの信頼を裏切っているからこそ、子どもは口を開かない、ということに、大人が気づいていない、気づこうともしない。実はそれこそが、根本的な問題であるのかもしれない。
 
もちろん、子どもだけの問題ではない。「言いたいことがあれば言えばいいのに」と不満を述べるのは、おそらく強い立場の側の漏らす言葉なのだ。言えない事情を、思いやることができないのだ。しかも、言えなくさせているのが、強い立場の自分だということが分からないのだ。いわゆるパワーハラスメントというものは、加害の側からは実に気づきにくいことなのである。
 
そう。それは、気づかないからだ。だがまた、気づかないのは、気づこうとしないからだ。
 
「神さま」と涙を流しながら、食べものがない中で子どもたちが死んでいく。理不尽な悪により命を絶たれる人々の無念さ。それは、果たして私と無関係な出来事なのだろうか。「助けて」も言えないままに消えていく、その声を聞こうともしない自分が恨めしい。そんな自分が、神の声だけが聞こえる、などと言えるものなのだろうか。



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