闇に光をもたらす説教
2022年11月28日
遠方に住む高齢の親に会う計画をしていた人がいる。住まう施設は、このコロナ禍において管理が厳しく、外出が殆どできないのに加えて、外部からの通常の面会もままならない。例外的に外出できる機会があると知ったので、その時に会う計画を、その人は立てたのであった。
親は、健康に少し懸念があった。いますぐどうだということはないが、不安な兆候が出ていたために、その人は、なんとかしてこの機会に会いたいと願っていた。もしかするとこの機を逃したら、もう会えないかもしれない、という危機感を懐いていた。
有給休暇をとった。JRの券を買った。手渡すものを用意した。あとは当日夜明け前に起きて駅へ向かうだけだった。だが、その人の職場で、コロナウィルス感染症の陽性者が出た。本人は陰性だったが、職場の業務が成り立たないほどとなった。理解ある職場だったが、やはりどう考えても自分がいないと仕事にならない。そういう責任感から、その人は、「神よ、何故……」と泣きながら職場に向かうしかなかった。
そして、帰宅して、誰もいない家の中で号泣した。そこには絶望という言葉が渦巻いていた。神はいるのだろうか、というところにまで心が引き裂かれそうになっていた。
翌日、礼拝はいつものようにリモートという形で迎えた。素直に聞けない状態だった。だが、講壇から語られる言葉は、確かに神の言葉だった。
夜は更け、日は近づいた。(ローマ13:12)
クリスマス前約1か月を「アドベント」という。多くの教会では、その期間に入ったその日だった。しばしば、クリスマスらしいイエス・キリストの誕生にまつわる聖書箇所が取り上げられる。
だが、礼拝で取り上げられた箇所は、一年の中でいつ取り上げられてもよいような箇所であった。しかし、そこにはクリスマスの深い意味を体験するための「霊」が潜んでいた。
「明けない夜はない」という言葉がある。マクベスの台詞の意味をまとめたもののようである。希望の言葉であるが、これに異を唱える人も少なくない。絶望を味わったこともなく、安易に口に乗せることは、厳に慎むべきであることだろう。このパウロの言葉「夜は更け、日は近づいた」についても、少々辛いことがあっても大丈夫だよ、と、絶望の中にある人の肩を軽く叩くかのように使うことは、決してやってはならないはずである。
説教者は、そうしたことを道徳的に戒めるつもりはなかった。それよりも、その言葉の真実を噛みしめて語るのだった。夜は更けたのだ。漆黒の闇が覆っているのだ。借金はかさみ、病状が進むのだ。もはや望みは消え、人の努力ではどうしようもない情況に陥ってしまうのだ。パウロも数々の困難に遭い、命の危機に幾度となく見舞われ、暗闇の中でもがいたことがあったのである。
ただの夜更けではない。絶望が人を襲うのだ。そして、その絶望の中にも、光は訪れる。否、絶望に喘ぐからこそ、光が分かるのだろう。闇だからこそ、射してくる光を感じることができるのだ。希望の光は、自分の中からは出てこない。光は外から射してくる。
そこに、クリスマスの光の意味がある。
如何にものクリスマスのムードを漂わせる教会がある。ツリーやリースを飾り付け、笑顔でメリー・クリスマスとぱかりに、SNSにメンバーの写真を挙げるところもある。果たしてその笑顔の内に、神から受けた平安があるかどうか、それは見かけでは分からない。
中には、映画のパンフレット棒読みの「説教」を当たり前だと思い込まされたような人々もいる。誰かの調べたことは、如何にもよく考えられたものである。それをまとめて読み上げるだけで説教をした形にしているような「礼拝」があるのだ。実は語る当人は、その映画を観ていないという背景がある。すると、パンフレット引用の喋りは、映画を実際に観た人にとっては、なるほど、と思えるから、よく考えて聞かないと、すっかり騙されてしまう。ただ、目を覚まして聞いていれば、実際に映画を観ていないということが分かるであろう。聞く側の意識も試されることになる。
逆に、実際に映画を観た人が自分の言葉で映画について語るとき、そこには生き生きとした命が伝わってくる。たとえ映画評論家の某ほど広い知識や深い洞察がなかったとしても、実際に体験したその映画への感動は、確かに届く。これも、聞く耳をもって聞く必要はあるであろうが。
かの絶望を覚えていた人は、神の言葉を語るこの命ある説教に触れて、泣けて泣けて仕方がなかった。この説教は、自分のことを話している、と、ひしひしと感じていた。
そう。私たちキリスト者は思い起こすことだろう。信仰を与えられたころ、説教で語られることが、自分のことを指摘している、と感じたはずである。中には、どうして牧師は自分のことをこんなにもよく知っているのだろう、と不思議だった、と後で漏らす人もいる。もちろん、知っていたはずがない。ご存じなのは神である。語られていた言葉が神の言葉であったから、自分の心を知っているものとして、ぶつけられてきていたのである。また、そのことが分かるからこそ、信仰が生まれていたということになる。
正に、神の「時」であったのだ。一番暗いその心の状態のときに、その人はこの説教を受けた。それは恐らく、語る者も気づかなかったであろう、そっ(口卒)啄同時とでも言うべきものであった。だがそれは、神の脚本によるものであったのかもしれない。神の言葉を語るべく祈り、努めている人からは、確かにそうした奇蹟が、次々と起こされるに違いない。
この説教は、自分のことを語っている。この説教は、自分のために語られている。親に会えなかったことで傷ついた心が、この瞬間に完全に癒やされたというわけではないけれども、絶望へ向かう心が、確実に希望の方向に向かっていた。闇に取り囲まれているにしても、光の方に向き直っていた。
そちらに、十字架のイエスがいることは、分かっていた。神がこの世に投げ棄てた御子の姿である。ぼろぼろのイエスの姿を通してしか、光は来ないのだ。あるいは言葉を換えて言えば、その瀕死の傷ついたイエスの姿こそが、光そのものなのである。
私たちの歩む方向が、こうして変わる。方向転換する。救いから遠ざかり、闇の方に吸い込まれる歩みから、光が来る方へ、救いの方へ、向きが変わるのである。それは、自分を偽る者には分からない。映画を観たことのない者が、映画からも読み手からも距離を置いたままパンフレットを読み上げても、この体験は分からない。どんなに自分が惨めで、心が鈍くなり、自分が暗闇に閉ざされていると感じ望みをなくしたとしても、暗闇の中にこそ、光はしみ通ってくる。イエス自身が、その闇の中を歩いて来てくださったのであるから、漆黒の中の自分を覚えるところには、光を知る機会がきっとある。
イエス・キリストは、私たちから遠く離れて声をかけるばかりではない。すぐそばに来てくださる。傷痕の残る掌で、私たちの頭に、肩に、手を置いて癒やしてくださる。そればかりか、いつもここにいるから、と言って、私たちの身を覆ってくださる。私たちの中に、いかに醜いものや弱いものがあろうとも、そのまままに私たちを覆ってくださる。その罪が表に溢れないように。それが私たちを裁判で不利にすることのないように。イエス・キリストは、「光の武具」(ローマ13:12)となって、イエスを信頼する者から、決して離れようとしないのである。