【メッセージ】私へのメッセージ

2022年11月27日

(ヨハネ3:1-21)

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。(ヨハネ3:16)
 
◆「クリスマス」でよいのか
 
クリスマスの1か月ほど前から、「アドベント」と呼ばれる期間になります。クリスマスといった考え方の歴史は、4世紀頃にまで遡ることができるようです。アドベントのように、それの準備期間を大切にする考え方も、ほぼ同じ頃に始まったように見られているそうです。歴史に詳しい方は、確かなことがあれば教えてください。
 
アドベントは日本語の「到来」にほぼ相当する意味をもちます。「アドベンチャー」という言葉に関係する呼び方ですが、これも、何か出来事が到来する、やって来る、というニュアンスからきているものと思われます。
 
何が来るのか。キリストが来るのです。そしていよいよ来たというのが「クリスマス」です。英語で書くとお分かりのとおり、「キリスト」と「マス」の組み合わせで、「キリストのミサ」と表現する語です。英語そのものを受け容れたことになりますが、各国では、様々な言い方をします。多くの場合、「降誕祭」や「聖夜」といった意味の語で表されています。
 
それにしても、クリスマスが馬鹿騒ぎや欲望の対象のようになって、どのくらい経つのでしょう。日本でも大正から昭和にかけての頃、どんちゃん騒ぎの代名詞になるほどに、クリスマスはメジャーな祭りになったそうです。なんと不純な、という気もしますが、欧米においても、ずいぶんと古い時代から同じような批判はあったようですし、商業主義が明確に入り込むと、益々本質も目的も分からないままに騒ぐものへと転じています。
 
クリスマスには、ツリーやリース、プレゼントなど、様々な小道具が活躍しますが、多くは異教の祭りに関係していると見る人もいます。そもそも12月25日という日付も、聖書とは関係がなく、ローマ帝国の異教の祭りを受け継いだようなものだ、とも言われているのです。この辺りも、歴史に詳しい人、ぜひお願いします。
 
こうした背景を知るにつれ、私はまず、その日付や習慣については、身を引きたい思いが強くなっていきました。「教会でもクリスマスをやるんですかい」といった落語すらあったといいますが、これほど「クリスマス」の言葉が認知されていても、そこに「イエスの誕生」というものを見る人は、世間にどれほどいるのか知れません。
 
いったい、何がこのクリスマスという出来事のエッセンスなのでしょうか。それは、神の子イエスが、地上に、人として来た、ということ、そこでしかありません。キリスト者は、ここから目を外さないでいたいものです。
 
◆世界一有名な聖書の言葉
 
マタイによる福音書と、ルカによる福音書に、有名なクリスマスの記事があります。子どもたちが聖誕劇をする定番の箇所です。福音書では、少し後発のこの二つのものが、イエスの誕生にまつわる物語を書いており、どちらも赤ん坊のイエスが登場します。まことに、イエスの誕生を物語るのに相応しいものとなっています。三人の博士が登場し、羊飼いたちに天使が歌って知らせるという、ロマンチックな構成にもなっていますが、ヘロデ王の残虐な仕打ちもありますから、お子さまたちにはそこは省略することもあろうかと思います。
 
それらの記事から、強調点を変えてお話しすることは可能ですが、それでも範囲が限られています。毎年同じような箇所から、あまり違わない説教がなされるとすると、長年教会生活をしてきた場合、もう十分知り尽くしたことばかりを聞くことにもなります。だから、聞き飽きた感じがする、という声も、やむを得ないと思います。
 
少しバリエーションをつけると、ヨハネによる福音書の最初のところか、イザヤ書などで、あのクリスマスの記事に引用されるような箇所を使いますが、それでもそんなに候補が増えるわけではありません。
 
いや、定番の箇所からは、いくらでも深いことが読み取れる。いくらでも話すことができる、という牧師もいます。それはそうです。それでよいと思います。徒に奇異な箇所から引っ張ってくるのがよい、とも思えません。ただ、クリスマスのエッセンスは何かという点を気にして、先ほど、「神の子イエスが地上に人として来た」という点を挙げました。このことについてなら、新約聖書の書簡の中にもいろいろあります。
 
このエッセンスという注目の仕方を考えると、このアドベントの始まりには、聖書の中でも世界一有名な箇所から示されるものがあったので、共に分かち合いたいと願います。
 
16:神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
 
これは、聖書の中の聖書、「小聖書」という呼び方をされることがある言葉です。この短い一文だけで、聖書の中心をずばりと示している、と受け止められています。聖書を暗誦するなら、まずここを、とも言われます。「独り子」「御子」というのが、イエス・キリストのことです。「神は世を愛した」からズバリと斬り込むその文は、一語一語噛みしめるように、どこかたどたどしくも、語りかけてきます。
 
もちろん、万人が神に愛されてすべて救われる、というようには読めません。神を信じるならば、そのすべての人が、永遠の命をもつようになるのです。
 
◆ニコデモ
 
ヨハネによる福音書でこの美しい一句が現れる箇所までには、ニコデモのエピソードが流れていました。それは、信仰入門としてもなかなか面白い対話です。その一つひとつを辿り味わっていると、それだけで幾度かの礼拝説教を要するだろうと思います。いまは、実に大雑把に見ていくことをお許しください。
 
このニコデモという男は、「ユダヤ人たちの指導者」(1)だといいます。議員のような立場なのでしょうか。ニコデモは、心密かにイエスを慕っていました。会って話がしたいのですが、昼間に人の目につく中でイエスを訪ねることはできなかったようです。ニコデモは夜イエスの許を訪れ、イエスのことを「神のもとから来られた教師」(2)と呼び、「神が共におられる」(2)と告白します。これはマタイのテーマでもありますが、ヨハネでもやはり、大切に受け取られていることなのだと思います。
 
このようにイエスに賛辞を送るニコデモに対して、返ってきた言葉は、「新たに生まれるべし」とのことでした。ニコデモは意味が分からず、とんちんかんな質問をします。けれども、これは多分に私たちの姿であるという自覚が必要です。いえ、むしろ私たちよりもニコデモの方が、その当時のその場面において、なかなか良い質問をしていると言えるような気もします。このニコデモの奇妙な思い込みは、常識的に言葉を受け止めるだけで、霊的に理解ができない場合は、私たちからいくらでも発されている言葉なのだろうと思います。
 
イエスは、新しく生まれるということは「水と霊とから生まれ」(5)ることなのだと言いました。「霊から生まれた者」(8)こそが、霊的なことを知るというようなことでありましょう。人間は「肉」を伴います。肉体ではありません。自己中心的であり、自己愛にまみれた者です。一言で言えば、罪がある、ということです。神の霊を知った人も、この罪ということは分かります。しかし、神の霊を知らない人は、自分に罪があることが分かりません。そのことが、霊を知らないということの証拠のようにもなることでしょう。なお、「霊から生まれたものは霊である」(6)では「もの」とひらがなであり、「霊から生まれた者」(8)では「者」と漢字になっているのには、理由があると思われます。前者は一般的な「もの」ですが、後者は「人」を表すように区別されているからです。
 
イエスはさらに、自分は「天から降ってきた者、すなわち人の子」(13)であると話し、やがてまた再び「上げられなければならない」(14)と言います。これは十字架の上に上げられるということを指していることが、この先の物語を知る人には分かります。この十字架によって、「信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得る」(15)のだ、と言うのです。
 
この直後に、先ほどの3:16が置かれていることになります。
 
◆3:15にまつわる議論
 
その前に、この3:15の訳の曖昧さについて、触れておく必要があります。「信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得る」(15)というのですが、「人の子」という部分に当たる原文には、代名詞の「彼」という語が明確に示されています。但し、「によって」に当たるその前置詞が、写本によって何種類か違っているのです。写本はどれも有力なものであるために、安易にどれかを捨て去ることがしにくいと言います。その前置詞のどれを採用するかによって、大きく「彼において」か「彼を」かに訳し分けられるのだそうです。口語訳聖書は「彼を」と訳していました。「彼を信じる者が、すべて永遠の命を得るため」と、かかるところが変わっています。しかし新共同訳と最新の聖書協会共同訳は同じで、「人の子によって」と独立させ、前置詞をあいまいにしているように見えます。
 
自由に解釈してください、という主旨ならば、それはそれで意味がありますが、聖書協会共同訳で新たにつくられた欄外注では、「人の子を」とする「別訳」がある、と付しています。口語訳を意識したのかもしれません。
 
「彼」という語が指しているのは、どう見ても「人の子」です。つまり、イエスのことです。イエスは、自分の口で、「自分を信じる者は」または「自分において信じる者は」と述べていることになります。如何ですか。いくら神の子であっても、そしてこのような劇的な台詞が目立つヨハネの福音書であっても、なかなかこれは自ら言えそうにない言い方ではないでしょうか。自分を信じろ、つまり私を信仰しろ、と突きつけていることになるのです。
 
これに続いて、あるいはこれを受けて、聖書の中の聖書が登場します。
 
16:神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
 
これは、3:15と、いうなれば同じことを言っているように感じられます。違うのは、前半の、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」という部分です。これもまたありがたいメッセージです。私たち人間が、そして人間が労してつくってきたこの世界が、神により愛されている、というのはうれしいことです。
 
しかしここにも、問題があります。文の初めのところに、「なぜなら」を示す軽い語があるのに、日本語訳には全く出されていません。英語訳ならば、あるのです。この語は「なぜなら」の意味が多い訳語となりますが、ときに「すなわち」もありえます。どちらも有りだとしても、ここに、非常に大きな、深い議論がこれまで行われてきました。
 
この節から、このまとまりの最後の21節までは、それなりにスムーズに流れていきます。世が救われることが目的であるという、16節のメッセージと、逆にそれでも裁かれることになるのはどういう場合か、が対比されます。イエスを拒み、イエスを信じない闇の側に付く者を持ち出して、光の方に来るように、と誘うのです。
 
◆3:16にまつわる議論
 
そしてこの3:16にまつわる最大の問題は、イエスの言葉がどこで終わっているか、ということです。ニコデモが、理解できない様子を示したのに対して、「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか」(10)と厳しく告げた後、イエスはとっておきの「よくよく言っておく」(11)という言葉を出します。これは特にヨハネによる福音書では決定的な言葉で、「アーメン、アーメン、私はあなたに言う」とでも訳すようなフレーズです。この福音書の中で、よほど大切なことを、今から言うから耳の穴をかっぽじって聴くのだぞ、とでも言うように、構えた言葉があるのです。
 
その後イエスの少し長い説明が続きますが、この15節で一度イエスの言葉を切ってしまうと理解することができるという研究者がいます。すると、16節からは、地の文として、筆者のヨハネが述べている、ということになります。確かにそう読んでも、取り立てて矛盾があるわけではありません。すっきりしているとも思います。しかし、この16節はイエスの言葉の一部であり、この後21節までイエスは話し続けているのだ、と解する研究者もいます。これもまた、特に矛盾するとは言えないのです。
 
古代の文献には、台詞を示すカギ括弧などありません。9世紀以前の大文字写本では語と語の間も切れ目がないようなことが当たり前で、もちろん全般的に句読点もないのですから、解釈に身を委ねるケースが多々あります。しかし日本語でも、同音異義語がいくらあっても、耳で聞いただけでほぼ誤解なくコミュニケーションができるのと同様に、古代ギリシア語も、基本的にそれでも困らなかったものと思われます。
 
果たして、どちらが真実なのか。昔の人は迷いがなかったのかもしれません。けれども時を経た私たちは今、どちらもありうるという説明の前に、戸惑っています。
 
そもそも、イエスがニコデモに説明をこのようにして、それに対してニコデモがどう反応したかには全く気を払わず、22節が、ただイエスと弟子たちがユダヤ地方に行ったという場面転換になっているために、私たちは惑わされています。ヨハネがもっと分かりやすく示してくれたらよかったのに、と無理な願いが沸き起こってきます。
 
少なくとも学問的には、解決ができないのではないでしょうか。聖書協会共同訳では、16節からは著者ヨハネの言葉だというふうに捉え、カギ括弧を閉じています。面白いことに、口語訳もここで閉じているのですが、新共同訳ではここでは閉じず、21節で閉じています。カトリックとプロテスタントの初の共同訳としての新共同訳だけが、別の解釈をしていることになります。この経緯については私は知りません。どこかに書いてあったかもしれませんが、いま探すのはちょっと無理ですので、どなたか教えてくださるとありがたく思います。
 
こうなると、結局個人の信仰というものがポイントになるのでしょうか。つまり、その人の受け取り方で、どちらかで受け止めればよい、という考え方です。確かに聖書には随所、そのように別の訳や解釈がありうる場面があります。特に新約聖書は、写本がいくらでもありますから、写本により原典そのものが様々であるという事情もあります。結局、一定の権威のある編集者たちが、どれかに決めて世に出しているだけであり、オリジナルそのものがない以上は、どれが正しいとは誰も決められない状態にあります。
 
それ故に、つまり原典が定まらないのに、聖書を神の言葉だと信じるのは奇妙だ、などと揶揄する人がいますが、これは品位のないことだと私は思います。各自が、各自の信仰によって、どの理解の道からでも、神の言葉を聴けばよいのではないでしょうか。その人の辿る神への道があり、神との出会いがあり、神との交わりがあるとするならば、そしてその人がそれに生かされる、あるいは命を与えられるのであれば、どこに問題があるというのでしょう。神との関係が確かであることは、見かけの文字が人を殺しても、霊が生かすというふうに捉える機会を認めることになるはずです。
 
神は石をもパンに変えることができるといいます。神はどんな原典からでも、どんな訳からでも、人を救うことができるに違いありません。そもそも、イスラム経典とは異なり、聖書が各国語に訳されているということは、正にそのことを前提としているのではないでしょうか。私はそのように思います。
 
◆私たち
 
ここで、一箇所だけ、戻ってみたいところがあります。何気なく読み飛ばしましたが、考えてみれば不思議な言葉がありました。
 
11:よくよく言っておく。私たちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたは私たちの証しを受け入れない。
 
先ほど申しました、「アーメン、アーメン、私はあなたに言う」という、決定的なことを告げるはずの場面です。その直後に、突然現れる人称は何でしょうか。「私たち」です。これは、誰のことでしょうか。
 
もとよりギリシア語は、普通はわざわざ主語の代名詞を表に出しません。動詞の活用が、何人称であるかを教えてくれます。「私はあなたに言う」ですら、「私は」の語はありません。但し、「あなたに」の語はあります。比較的にではありますが、「あなたに」の言葉は強く響きます。
 
さて、この「私たち」ですが、ここは語っているのはイエスに違いありません。「知っていることを語り、見たことを、証ししている」の主語、主体が「私たち」です。その「私たちの証しを受け入れない」は、と批判しています。しかもよく見ると、ニコデモ個人に告げているはずの場面で、「あなたがたは」受け入れない、と言っているのです。どれをどうとっても、奇妙です。
 
「私たち」とは、イエスと誰のことなのか。イエスと十二弟子たちというつもりでしょうか。イエスの弟子たち一般を含むのでしょうか。もし霊的に捉えてよいのであれば、イエスと父なる神とを指していることになるのでしょうか。同じヨハネは、「私と父とは一つである」(10:30)などと言い、イエスが父との関係をいつもそのように語っているように見受けられます。
 
しかし、場面はやはりイエスがニコデモに向けて話しているところです。ただ、先に申しましたように、この説明は、ニコデモの反応を全く気にせず、ぷつんと終わります。つまり、ニコデモとの対話が、いつの間にか自然消滅しているように見てもよいのではないか、という気がするのです。
 
そもそも聖書は、神からのメッセージであるとして、聴く人、読む人が受け止めるように書かれた書です。福音書にしても、それは文学作品ではないし、伝記でもありません。歴史書のつもりで書かれてあるわけでもありません。それらであれば、書物の中で、対話が完結していなければならないはずです。小説の登場人物が、いきなり読者に話しかけてくるようなことがない、という前提で展開します。しかし、どんなジャンルにも収まらない「福音書」という画期的な形で成立した新約聖書の福音書は、そのようなタブーはないどころか、むしろそれを目的としている、と見なすことができます。
 
このイエスの言葉は、私たち読者、否、いまは私が述べていますから、単に「私」とだけ言いましょう、この私に向けて、発されているはずなのではないか、と言いたい。もし現象面だけに留まりたいならば、これはヨハネが読者に告げている、でもよいでしょう。ヨハネのが個人として存在しない場合には、「ヨハネ共同体」と呼んでも構いません。ヨハネによく福音書や、ヨハネの手紙、場合によってはヨハネの黙示録などに関わるような、ヨハネのグループ全体が、読者に語りかけている、としてもよいでしょう。
 
私はいま、そのように受け止めておきたいと考えます。それが私の信仰です。そしてそうなると、15節で切るべきなのか、16節へと続いているのか、といった議論自体が消滅します。どちらでもよいのです。むしろこれらのイエスが発したとされている言葉は、小説とは異なり、その文字を飛び出て、読者へ、あるいは朗読されて聴く者へ、ダイレクトに向けられたメッセージである、と私は捉えているのです。
 
◆神の独り子が来る
 
従ってこれは、私へのメッセージなのでした。いま一度、大切なそのメッセージを受け直してみたいと思います。これはもう、ニコデモに対してのものではなく、著者ヨハネが誰とも分からない者を相手に論じているものでもなく、ひたすらいまここにいる私に向けて投げかけているメッセージなのです。
 
16:神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
17:神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。
 
これに続いて、裁きの側面が強調されています。闇を愛する人々、悪を行う者が登場します。ただ、そのようにしていることですでに、裁かれた結果のようなものだ、というように語られ、「光の方に来ない」(20)のだとはっきり言われています。これは、ヨハネ共同体に寄りつかない人々を挙げているのだろう、と私は思います。だから、いまヨハネ共同体に属している人、つまりこの福音書を読むか聴くかしているあなたは、そうではないのだ、救われているのだ、と励ましたいのだと思うのです。
 
この福音書を知る私は――いえ、ここからは、皆さまのこと、「あなた」だと呼びましょう、あなたは、その一人なのです。「霊から生まれた者」(8)です。「水と霊とから生まれ」(5)た者です。大真面目でイエスにとんちんかんな質問をするニコデモの放つ言葉が滑稽に思えるくらい、イエスの言葉の意味が分かっている者の一人です。「新たに生まれ」(3,7)た者なのですから、心配は要りません。裁かれる云々を気にするよりも、「信じる」は、ことへと没頭しましょう。「信じる者が一人も滅びない」(16)と、福音書は断言しています。すでに、「神は、その独り子をお与えになった」(16)のです。
 
これが、あなたへのメッセージです。神はあなたを愛しています。それだから、「神の子イエスが地上に人として来た」のです。このことを信じますか。信じるならば、その思いの先には、「御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得る」(16)という約束が待っています。
 
ここから一ヶ月間、この神の出来事に、しみじみと思いを馳せる期間を私たちは過ごします。神の愛を、日々新たに覚える心が、どうか与えられ続けますように。いえ、さしあたり今週一週間、神の愛の言葉が、あなたを支えてくださいますように。



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