「宗教二世」という言葉
2022年11月14日
流行語として2022年に現れた言葉がある。表現として、どうにも引っかかるのが「宗教二世」という言葉である。子どもに宗教を教えることがいけない、という勢いで用いられているように見えるからである。もちろん、虐待や金銭に関する犯罪的な行為について、それを親の権利であるかのように当然視してはいけないはずだ、という考えがベースになっているわけで、ようやく統一協会問題を通して、健全な意識が社会に生まれたという見方もできるだろう。しかもそこには、マインドコントロールの問題も潜んでおり、ひとが「自由」を根拠にする場合にも、厄介なことが潜んでいることなど、事態は単純ではない。
新聞社が、カルト宗教のみならず、いわゆる伝統宗教においても、「宗教二世」の声を聞かせてほしい、と募集をかけていた。すると、キリスト教会にもこれが及ぶし、神道や仏教でもそうなることになる。「自分は寺に生まれたというだけで、僧侶にさせられる」という声が現れるかもしれないし、「なんで仏壇が家にあるんだよ」とか「寺に墓参りなんてイヤだ」とかいうことが、人権として、社会的に正しいとされる方向性を、その募集は意図しているように見受けられるのだが、偏見だろうか。
議論を端折るが、日本では「宗教」が教育の中で行われない。高校の倫理の中で、かろうじていくらか扱われる程度である。この倫理は必修科目とされているとはいえ、受験科目の中では脇役に過ぎないのが現状である。この環境の中で「宗教」とわざわざ取り上げるものは、一般的に「カルト」と大きく重なるようなイメージで捉えられているように思われる。「無宗教」だという自覚をするのは、そのためである。だが、この国を覆う、言葉にならない宗教的空気に、自然に染められているという辺りが、客観的に適切な指摘であるのではないか。ちょうど、そこに住んでいるだけで「氏子」に数えられているように。食事に手を合わせ、道ばたの地蔵にも手を合わせたくなるような気持ちが、本来の「宗教」と別物であるはずがない。
教理宗教は怖い。だが、見えない力で支配されている宗教的空気は大切である。自分はそういうものに支配されているつもりはない。教理宗教に支配されることは悪である。けしからん。――こうした、言葉にならない真理背景を、より明確に言語化していくために、「宗教二世」という言葉が利用されていくような虞を懐くのである。
たとえば「家訓」というものがあり、親が子に精神的な教えを施す。「人に迷惑をかけないように生きてほしい」という、親から子へ自然に願うようなものも、その部類に入れることは可能であろう。それに対して子が、「押しつけるなよ、自分は自由に考えるんだから」とということが良しとされる方向を目指しているような動きが、「宗教二世」という言葉を扱う背景に潜んでいるのだとすれば、そもそも「教育」とは何であろうか、と問わざるをえない。
国語という科目には、見えない形で、一定の「道徳教育」がなされているという見方がある。それは国の定める教科書で、隠れた形で仕組まれている教育である。困難があっても、大人を信頼し、自分を信じて明るく前向きに歩んでいくのだ、という物語や評論しか扱われない教育がそこにある。子どもたちは、自分でなんとかしなければならないと思い込み、SOSが言えないようになる。欧米にしばしばあるように、気軽にアピールし、またカウンセラーに相談できる文化があれば、鬱積したその悩みはだいぶん解消されるであろう場合にも、自分の中に抱え込んで、親にも言えないという情況が、この空気からつくられていく。そして画一的統一的な学校生活をつくるのは、かつて明治期のように富国強兵を目指した軍隊論理が基本にあるという見方もなされているとすれば、もっと私たちの生活の中に潜む、隠れた意図というものを考える必要があると言わざるをえないはずである。
「宗教」という言葉で一括りにして、そうした国家論理への批判を悪としていくような動きには、警戒しなければならない。子どもの虐待や家庭の犯罪は、本来「宗教」とは別問題のはずである。それを「宗教」のせいにしようとする言葉遣いについては、もっと声を挙げて然るべきだと私は思う。
キリスト教の内事情については、今回は触れることなく、この問題について述べてみた。キリスト教における実情や問題については、また改めて指摘してみたい。