主がお入り用なのです
2022年11月13日
キリスト者にとっては、言わずと知れた、エルサレム入城にまつわる場面。子どもたちにも人気である。なんといっても、イエスさまが、わざわざろばの子どもをリクエストして、大切なパレードに使ってくれた、というのである。幼子の祝福と共に、子どもが主役になるような場面なのである。
イエスは二人の弟子を使いに出し、村につないである子ろばを引いてくるように、と命じた。人に咎められたら、「主がお入り用なのです」と言えばよい。
これから起こることを、見てきたように言うイエスを、二人の弟子がどう思ったかは記されていない。ただ、何の問題もなく、子ろばはイエスの許に引かれてきた。イエスはそれに乗り、エルサレムに正に乗り込むこととなった。
説教者によって開かれたのは、ルカによる福音書であった。他の福音書にもこの場面は書かれているが、ルカだけは、このイエスを迎えたのは「弟子の群れ」だと書いている。これを指摘してくれたことは意義深い。ここは一般に、群衆がイエスを熱狂的に迎えたけれども、その群衆が手のひらを返したように、数日後に同じイエスに「十字架につけろ」と叫び続けた、と紹介されるからだ。人間の変容ぶりを如実に示す、貴重な記事だと考えられるものであった。
しかしルカは、弟子たちだけである。ルカにとり「群衆」は、具合の悪い存在である。どうにもイエスを理解できず、愚かな集団のように描かれる傾向がある。ルカからすれば「群衆」は、最初からこのイエスの歓迎の輪に入るような存在だと見なされていなかったのかもしれない。
そこで、人の変わりように注目するのではなく、イエスがエルサレムを見て泣いたという方に、読者の関心を向けることになっているものと思われる。ルカにとり「エルサレム」という存在は、特別なものである。イエスの地上での役割は、すべてはこのエルサレムへ向けての歩みの中で実現されてきた。エルサレムこそ、この福音書の中核に聳える背景なのである。
ところで、子ろばが子どもたちに人気があるのではないか、という点に触れたが、大人もたぶん同様で、自分もこの子ろばのように、イエスの働きのために用いられる存在となりたい、と願うのが常道となっているように思われる。それはそれでよいのだ。それを押えておかなければ、この箇所からは語れない。記事に対して傍観者でしかないのは、聖書の恵みを知らないということになるからだ。
しかし、説教者は次に視点を換える。ここで弟子たちが、イエスの言葉にまっすぐに従ったという点に注目する。もちろん、心の中でどう思ったかについては、先に触れたように、記事は全く触れていない。だが、殊更に気負いもなく、弟子たちは主の言葉の通りに、出かけて行き、子ろばを連れて来るのである。
さらに、説教者は興味深い指摘をする。なぜほどくのかと訪ねられたら、主がお入り用なのですと答えよ。その心準備だけをして行くと、果たしてろばの「持ち主たち」がそう言います。弟子たちは、イエスの教えの通りに答えて、事なきを得ました。「主」がお入り用なのだ、と。
ここには日本語の訳においても、「主」という字が二つ登場する。それが原文でもそうなのだ、と説教者は告げたのだ。確かに前者は複数であり、後者は複数である、という違いはある。だからこそまた、人間たちが自分たちを何らかの「主」だとしているのに対して、イエスという「主」のためなのだ、と話が動いていくことが分かる。
この「主」は、奴隷に対する「主人」を表すこともある。人間が「主人」であるような顔をこの社会ではするものだが、真の「主人」はそうではなく、イエスである、というところへ、記事に出会う私たちは動かされていくことになる。
弟子たちは、命じた通りに動いた。真の主人が誰であるかというところへ動かされていた。説教者はそこに、「自由」がある、と言った。実にさりげなく、それ以上追究することなく、さらりと言った。だがこれは、深く噛みしめたい言葉であったはずである。
そこには何ら自分の意志によるものはない。自分で決める気配はない。自主的なものはない。だがこの「自主的」という言葉こそ、「自分が主人となる」という響きをもっていることに気づかされる。自分が主人であることを棄てたときにこそ、「自由」があることになる、という逆説めいた考えの筋道こそ、キリスト者が心得ておきたい、あるいはキリスト者だからこそ強く肯く世界の言葉であるのだ。
子ろばとしての自分を見出すのも恵みである。だが、この弟子に光を当てることによって、この場面のエピソードは、弟子たる者のあり方を示すものとなっている、と理解できる。このような視点を与えられたとき、私には、そもそも「福音書」というものが、弟子たちの教育のための書であった、というふうに見え始めた。「手紙」が、教会形成に傾いているとすれば、「福音書」は弟子たちの生き方を教えるものなのだ。弟子たちは、イエスに従った。イエスに従うとはどういうことなのか、そこに願いをこめて、福音書記者は心をこめて綴っていたのではないか。聖書に、また新たに命と息吹を覚えた瞬間であった。