完全さについての序論
2022年11月10日
この世界に、完全なものを想定するかどうか、人の思い描く世界観は、その問いに対する答えにより、大きく変わってきたように思う。
完全なもの、それは神であると言ってもよいだろう。だが、「完全なものは存在するはず。神は完全なものである。従って神は存在する」という素朴な三段論法は、カントが徹底的に叩いているし、他の哲学者もこぞってその路線で論を固めている。確かにその通りであろう。
キリスト教は、完全なものを前提としている。つまり、神である。他方、人間は完全にはなれない。そのままだと滅びる側に回されることになるから、それを回避するには、何らかの完全性を与えられなければならない。そのために、何かが犠牲になり、その不完全性を赦すのでなければならなくなった。
こういった思考の枠組みは、キリスト教に限らず、何らかの生け贄をしてきた文化ならば、共通に思い描いたことなのだろうと推測する。日本にも、その考え方はあったのだと思う。
だが、万物は流転する、というように、変化しか世界にはないとする立場だと、考え方がだいぶん違ってくるかもしれない。どうしてもけじめをつけなければならない完全性というものが、見当たらないからである。なんでも水に流せばいい、それで清くなるのだ、とするならば、その方向に進んでしまう可能性がある。
尤も、万物は流転する、という命題自体が変化しないのだとすれば、それはどういうことなのか、と突っ込まれる余地はまだあるのであるが。
守らねばならない完全というものが君臨しているときには、そこに当てはめようとする権力者次第では、社会は不幸になる。他者をそれに適用するならば、暴力を生むことになるだろう。どんなに崇高な理想を掲げても、暴虐が支配する社会となってゆく。少なくとも歴史がそれを証明している。
だから、完全者などそもそも存在しないのだ、という前提で動く方がましだ、とする人が増えるのも、分からないではない。すべては相対的で結構、そのほうが互いに平和でいられる、と思うのは、一定の気楽さがあるだろう。「多様性」を重んじる傾向がいま支配的であるが、この前提と親和性が高いようにも見受けられる。だが、私の感じ方からすると、「多様性」が完全者の想定に対立するとは限らない。
聖書の解釈がいろいろあるが、どうしてなのか。せっかく聖書に価値を見出してなお、そこに疑念をもつ人がいる。だがこの疑念は非常に危ないものを含んでいる。いわゆるカルト宗教は、その感情を待っているからだ。「これが真実だ」と、とにもかくにも提示してしまう。そうして、ひとの心を刈り取っていくのである。
その聖書には、不思議なフレーズがある。
だから、あなたがたは、天の父が完全であられるように、完全な者となりなさい。(マタイ5:48)
人間が「完全な者」になど、なれるはずがない。聖書のイロハである。だが、神の完全さと人の完全さとでは、当然指し示す事柄が変わる。そして、人の場合に「完全」という言葉が何を指し示すか、その読み取りも、「多様」であるはずだ。私のような貧しい言葉しか持ち合わせない者が、その秘密を「完全に」説き明かすことはできない。できるのは、せいぜい、その秘密を持ち合わせたお方を、指し示すことくらいである。十字架の、姿である。