反ワクチンの立場そのものには反対しないが
2022年11月8日
新型コロナウィルス感染症に対するワクチン接種には、根強い反対者がいる。様々な立場からあるから、画一的に捉えるつもりはない。体質や既往症その他の関係で、医学的にワクチンにそぐわないような人もいるであろう。そこに無理強いをかけたり、偏見をぶつけたりすることは明らかに間違っている。
だがそもそも、このコロナ問題で急にワクチン接種に関心をもったという人の場合、ワクチンそのものに対する知識が少ない場合が見られることには注意をすべきである。特に小児に対するワクチン接種は、長らく議論の的であった。予防接種と呼ぶべきものを含めて、我が子に対してどういう選択をするとよいのか、これは親としては頭の痛い問題であり続けたのだ。取捨選択の判断は、親にとり悩みの種である。
政府が「ワクチンを打ちましょう」と言うから打ちました、それだけでいいのか、という話は当然あるべきだが、かなり昔には、一律そういう感じだったようだ。だが患者や受ける市民のそれぞれが、いわば自己責任で考えなさい、というような時代の傾向になっていくと、今度は市民サイドが困った。どうすればよいのだ。専門的知識がないのに。
確かに、政治主導にあまりに従順になることだけが最善ではない。ただ、蓋然的にであれば、公が推奨することには、意味がある。今回のコロナワクチンは、従来のワクチンと称するものからすると、画期的な発明であった。敵を体内に招き入れて敵を覚えて対策を立てよう、という段階から、敵を少し弱らせた形で招き入れて敵を覚えるようにしよう、という段階もあったのがワクチンの思想であったが、今回は、敵ではないが敵の真似をする犯人役を立てて敵を覚えよう、という方法に出たのだ。
ただ、従来のワクチンと比べて、被験(臨床試験)が不十分のまま実用化したことは、不安を誘う要素ではあった。つまりは人類全体が被験者となり、どうなるか様子を見るという冒険に出たのだ。それは、そうせざるをえなかった緊急性があったためである。
結果的に、としか言いようがないのだが、なんらかの実効性はあったと思われる。感染の拡大は、確かに抑えられた。毎年施されるインフルエンザワクチンに比べると、よほど有効であった、と見なすべきであろう、というのが大方の見解である。運が良かった、と言ってよいかもしれない。
その結果、ということしかこれまた言えないが、医療は守られた。もし、ワクチンなしで世界が進んでいたら、あの当初のヨーロッパにおける、医療崩壊がさらに進んでいたと予想され、今頃は人類滅亡に近い状態になっていたか、国家や社会が崩壊していた可能性すら考えられる深刻さがあったのである。
政府が主導することについて、信用ができない、という人がいる。だから、それ故に、ワクチンは悪だ、という程度の反対しかしない人がいるのは確かだ。身近な誰それさんはワクチンで腕が腫れた、世の中にはワクチンを打った後に死んだ人がいるからあれはワクチンのせいだ、といったことで、すべてのワクチンは悪である、と断ずるのである。だが、大抵の場合は、医学的な知識がなく、近視眼的な発想だけである場合が多いように見受けられる。ワクチン接種や予防接種は、ひとりも不適応者を出さないでいるということは不可能なのだ。
だからまた、自身のためのみならず、自分の子にワクチンを接種するかどうか、親は悩む。何かあったら親のせいだと言われる。しかし、コロナウィルス感染症は、当初と異なり、子どもに対しても命を奪う可能性が報告されるようになっている。また、子ども同士の関係から感染し、家に持ち帰ったために、家の高齢者が亡くなるという危険性を免れるものではないのが現状である。もちろん、ワクチン接種をして症状が出ないにしても、ウイルスのキャリアになることはありうるので、ワクチンの有無だけでは議論できない情況がここにはある。
我が家では、子どもたちの母親は医療従事者である。医学的知識に基づいて、ワクチン問題については、様々な資料を検討して、受ける・受けないの判断をしてきた。私は素人なので、妻を信じた。それらが完全な判断であったかどうかは分からないが、かかると非常に怖いものについては、受けるようにするのが、基本的な姿勢であったと言えるだろう。ただ、社会的にも、ワクチンの改良や伝染病の流行情況などの点で、推奨する・しないの変化が見られることがあったし、ワクチン接種の方法が変更されることも幾度かあった。ワクチンが万能ではないのは事実だから、これらはあくまでも蓋然的な判断であった、としか言いようがない。
新型コロナウィルス感染症のワクチンについては、もちろん体質的な問題などがなければ、受けるという立場で臨んできた。だが、ここのところ、嬰児レベルにも接種を可能とするという報道が見られており、これは妻からしても、判断に迷うところだそうだ。保育園に通う子であれば、接種した方がよい方に傾くのだというが、家にいる幼子についての接種は、成長段階からしても、自分だったら打たないのではないか、という考えを漏らしている。もちろん、打たせる親をとやかく言うつもりはない。今後の情報と医学的な資料の公開により、どう考えるのがよりよいことであるのか、まだまだ分からないようである。
かつてよく売れたそうだが、私は知らなかったある本を、今開いている。『悪霊にさいなまれる世界』(カール・セーガン)である。もちろん20世紀の時代における有様ではあるが、一言でいうと、反科学的な迷信がはびこっている中、それよりは科学の方が遙かに信頼が置けるはずだ、ということの叙述である。副題が「「知の闇を照らす灯」としての科学」となっており、いまも比較的入手しやすい本である。盛んに言及されているのは、アメリカの情況である。空飛ぶ円盤やオカルト現象などを、驚くほど真面目に信じている人が多いのだそうだ。
この「信じている」というのは、日本でどう受け止められるか分からないが、「パワースポット」だの「祟り」だのを否定しない日本の風土も、同じようなものだというふうに感じられる。カルト宗教はそこを突いて、金を巻き上げたに違いないのである。
カール・セーガンは、実にドライに、科学こそ信じるに足る、と断ずる。それは、科学が真理だ、と言っているのとは違う。逆に、科学は自分を真理だとは決して言わない、という。いつでも自分をさらけ出し、他人の検証を求め、さらにその科学理論が改良されていくように仕向けるのが科学のやり方だと言うのであって、科学が不変であるなどと言っているのではない。逆に宗教の方は、一切の反論を許さず、自分は真理だと宣言するばかりだが、なんら検証されることを認めないのだが、さて、それが真理なのだろうか、と批判している。そのような反科学的な態度が、かつて何をしたかというと、魔女狩りや焚書であった。魔女狩りとは、カルト宗教がいま自己正当化のために信徒に叫ばせているように、カルト宗教を批判することをいうのではなくて、全くその逆だということがよく分かる。
あのコロナワクチン接種後の腫れた腕を報道したものだけを見て、特に若い世代が、自分たちはかかっても死なないのだから、と接種から離れたことと、反ワクチンの叫びとは、直接関係がないかもしれないが、どちらも「科学」に基づく判断ではないように感じられる。ご自身が打たないという人を、さあ打て、と引きずるようなことをするわけではない。自己責任の判断において、自分は打たない、というのは、それは一つの生き方であろう。だが、「科学」に基づくものではなくして、ワクチンは悪魔だ、のように叫ぶのだとしたら、それは、セーガンが嘆くか皮肉るかしたような、アメリカ人の姿と似通っている、と言われても仕方がないのではないか。
セーガンは、神を信じてあの本を記したわけではない。むしろ宗教を揶揄すらし、科学を信じているという方であろう。神を信じる私がそれを支持するのは、奇妙であるかもしれない。ただ、科学は根拠を定めて筋道を通す論理を骨格とするとするなら、人間が感情や群衆心理で無根拠に筋道の通らないことを叫んでいる姿と比べたときに、間違いなく前者を大切するべきだ、とは考える。
私のような素人の呟きもまた、信用の置かれないものではあるだろう。「池上台K'sクリニック」のウェブサイトに、「ワクチン忌避がパンデミック」という考察があるのを見出した。一部には、ワクチンに代替することを考えている人たちがいることにも触れながら、他方で「反知性主義」や「民主主義のはき違え」、そして「ポピュリズム」まで視野に入れながら、医師が分かりやすくこの問題を説明しているように見受けられた。そちらは、じっくりと読むに値すると思うので、一読の価値はあると見ている。如何だろうか。