破れ口に立つ
2022年11月7日
「破れ口」という訳語は、聖書協会共同訳では、ヨブ記30:14だけになってしまった。私の中で記憶にあったのは、新共同訳のエゼキエル書である。調べると2箇所あったが、たぶん次の方が心に残っていた。
この地を滅ぼすことがないように、わたしは、わが前に石垣を築き、石垣の破れ口に立つ者を彼らの中から探し求めたが、見いだすことができなかった。(エゼキエル22:30)
エゼキエル書のもうひとつも、言っているのは同じようなことであった。なお、口語訳ではほかに3箇所あり、新改訳2017ではもう少し別にもあった。
「破れ口」という日本語には、なんとなく魅力がある。普通の言葉ではない。素朴な意味では「裂け目」のようなものであろう。日本人だと「蟻の穴から堤も崩れる」という諺が脳裏を過るのではないかと思う。
世界的には、オランダの少年が穴を塞いで堤防の決壊を防いだという伝説が知られているように思う。この逸話は、『銀のスケート』(ドッジ)という小説の中に出てくるエピソードであることが分かっている。この物語は、どこかで私も読んだことがある。
この言葉が、アブラハムの場面で訳出されているようには思えなかったのだが、アブラハムが主に対して交渉的な執り成しをなす物語に対して、「破れ口に立つ」という題が今回掲げられた。
京都の母教会の牧師からも、この言葉は聞いたことがあり、心に残っていた。正に「破れ口に立つ」というのが、ヒーロー的で勇ましいイメージである。そこで退いたら、全部がダメになる、そんなところで敵を防ぐのである。
アブラハムの執り成しは、ソドムとゴモラの罪に対する主の裁きを食い止めるためのものだった。創世記18章の物語は、聖書をご存じの方はきっとご存じであろう。まずはソドムが査察されることとなったが、もしもそこに少数でも義人がいたら町を滅ぼさないでほしい、とアブラハムが粘るのである。
この直前、アブラハムは三人の客の訪問を受ける。客をもてなすのは中東の文化である。アブラハムとサラは、かなり心をこめたもてなしをする。すると彼らの一人が、サラに、来年子どもを産むことになると言う。年老いていたサラは思わず笑いたい思いになるが、その思いはすでに見抜かれていた。主には不可能なことはない、と「主」が言った、という。三人は神なる「主」であるという、創世記記者の解釈である。
アブラハムは三人と、ソドムを見下ろせる場所まで行く。「主」は、ソドムの罪を確かめに行くことを告げるが、アブラハムは、「正しい者を悪い者と共に滅ぼされるのですか」と言い、50人正しい者がいても町全体を赦さないのか、と問う。「主」は、このアブラハムの言い分を尤もだと思ったか、滅ぼさないと答える。アブラハムは45人だったら、40人なら……と値切っていき、最後には10人いたら滅ぼさないという「主」の約束を取り次ぐ。v
ここで説教者が、主に「にじり寄る」という言葉を使ったところに、私はその豊かな言葉の情景が目に浮かぶのを覚えた。あまり使わない言葉である。私の知るのは、茶室の「にじり口」くらいのものである。刀のまま入れぬようにしたとか、へりくだりの姿勢から茶の空間に入るようにしたとか、いろいろな解釈があるそうだが、千利休がキリシタンの思想に学んだのではないか、という意見の人もいるらしい。
それはともかく、このように、他人のために祈り願い、神に頼むことを「執り成し」という。
さて、説教では、逸話として、東日本大震災の地に、伝道師を送った話がまず紹介された。あの悲惨な現状に、説教できないという伝道師を励ますような形ではあったが、現地ではさらに、震災のために神を信じることができなくなるような人と出会うことになる。神よ、何故、と問うことはもちろんそれでよいし、いろいろな人、また神学者まで、何故に神よ、と叫ぶ大災害であった。
説教者はその時、神が信じられなくなる人の気持ちを「分かる」ことに対して、疑念を告げたという。いやいや、家族や身近な人を喪い、財産をなくした人だったら、神が信じられなくなるくらいのショックがあるのは当然ではないか、それを、これも神の御心です、というような形で聖書を説く者がいたら、冷酷そのものであろう。時折、そうした勘違いをしている「クリスチャン」の話を、悲しいけれども、聞くことがある。中には、震災は神罰だ、と平然と言ってのける者もいた。
しかし、だからあなたの気持ちは分かりますよ、と果たして言えるだろうか。それも傲慢であるに違いない。あんたに何が分かるか、と噛みつかれそうである。
それでも、だからこそ神の慰めを伝えるのだ、という信仰もまた、私は本物であるだろうと思う。こうすればよいのだ、という公式があるわけではない。どれが正解だと決めつけて、常にその方程式を使えばよいというのではないだろう。その時、その都度、傾聴するとか、遠くで見守るとか、あるいはまた聖書からの話をするとか、何かが「霊」によって示されるのだ、としか言いようがないのであろう。あるいは、それを知らせるものは「愛」である、と言えばよいのだろうか。
人が壊れそうな場面に出会う。それを止めるにはどうすればよいか、単純な答えはない。だから「破れ口に立つ」というのは、「立ってどうするのか」を教えるフレーズではない。ただ、その場に向き合うこと、逃げないこと、そしてできれば、そこへ行くこと、そこから何かが始まるということであってもよいと思うのである。
というのは、そこに「立つ」ことなど全くしないでいるにも拘わらず、やれ何はどうだ、それは正しい云々、口だけは達者に出している人が(もちろん私自身を戒めつつ言うが)、なんと多いことか、と感じるからである。
事態を常に外からのみ眺め、いっぱしに評論する。自分は安全な場所から眺めて、どうせ他人事だからという潜在意識を以て、正論を語る自分が気持ちよいと思っているのである。自己愛のなせる業である。
下手をすると、ソドムを見下ろしているアブラハムにしても、その一人に過ぎない、と指摘されることを懸念する。アブラハムにとってもまた、ソドムとゴモラは他人事のようなものではなかっただろうか、という問いかけである。もちろん、甥のロトがソドムにいたという意味での当事者ではある。ロトの家族がもしも義人に数えられるならば、神にそれを共に滅ぼさないでほしいという願いに俄然現実味が加わるはずである。その意味で、アブラハムがソドムを護ろうとした姿勢は、十分に当事者の感覚である。
「主」も、そこは計算済みであったのかもしれない。「わたしが行おうとしていることをアブラハムに隠す必要があろうか」と呟き、アブラハムにはソドム滅亡への筋書きを漏らしている。さあ、これを聞いてアブラハムよ、どうするかね、とでも問うかのように。
だが、アブラハムは、10人で交渉を止めてしまった。どのようにそれが終わったのかは聖書に描かれていないが、アブラハムは、少なくともそれ以上は食い下がらなかった。なんとか10人ならいる、とでも思ったのだろうか。これ以上神を怒らせてはいけない、というようにでも考えたのだろうか。
結局、ソドムは滅ぼされることになる。三人の客のうち「主」を除いた二人がロトの許を訪れ、ロト一家を逃がすのが精一杯であった。だがこれも、アブラハムの執り成しを受けてのことではなかったか、とも想像できる。
何故アブラハムは10人で止めたのか。あるいは、満足したかもしれないのか。それを批判することは、私たちには簡単にできる。だがそれも、ソドムとゴモラを他人事として見ているからこそ、の傍観者の考えではないのか。私はすでに、その町にいたのは私であり、私はその義人に数えられるはずはない、と思っていた。ソドムの町に、私は暮らしていた。私の立場は、ソドムにあった。
だが、私は滅ぼされなかった。何故か、と問うならば、そこをこそ問わねばならないはずなのだ。そしてその答えは、説教者が提示するまでもなく、私の心臓をすでに貫き、目が熱くなっていた。
確かに、10人もいなかった。だから神のこのソドムへの仕打ちには、嘘はなかった。だが、正しい者が、1人だけ、いたのである。
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破れ口に立つ者は、イエス・キリストであった。
――さあ、この罪の世界の中で、おまえはこれを聞いて、どうするかね。