【メッセージ】ぼくを探しに

2022年11月6日

(箴言7:1-27,ローマ7:15-20)

私の戒めを守って生きよ。私の教えを目の瞳のように守れ。(箴言7:2)
 
◆ぼくを探しに
 
「ぼくはかけらを探してる、足りないかけらを探してる、
 ラッタッタ さあ行くぞ、足りないかけらを……」
 
シルヴァスタインの名作『ぼくを探しに』(The Missing Piece)という絵本をご存じでしょうか。円に近いような形に、ケーキ一切れ分ほどの切れ目が入った「ぼく」が、その欠けた切れ目にすっぽりと入る「かけら」を探しに出かけるという絵本です。白い背景にフリーハンドの線描きの絵が、なんともいえない味を出しています。
 
説教題は、これをイメージしました。とはいえ、この絵本の内容を露わにするつもりはありません。絵本のほうは、後で各自お楽しみください。きっと、じんとくると思います。
 
「ぼくを探しに」出かける。となると、「自分探し」という言葉を思い浮かべる人が多いかと思います。「自分探し」という言葉は、いつごろから使われるようになったのでしょうか。ある人が、朝日新聞の記事にこの言葉がいつから登場したか、調べたものを見つけました。それによると、1989年に初めて新聞に出てきたそうです。増えてきたのは1994年からで、2010年まではかなり多いと言えます。その後は少し減っていますが、一定量は保っているようです。
 
この「自分探し」ということについては、もちろん当初は、共感の声が多々ありました。若い人が「自分探し」をします、というのは、まるで市民権をもつための宣言のようなもので、誰もが応援し、賛同するものでした。しかしそうなると反動というものがあるもので、やがてこの現象に、反省の手が加わります。心理学者をはじめ、いろいろな人が、自分探しの背景を分析し、その脆さを指摘し始めました。
 
哲学の世界では、19世紀のほぼ前半を生きたキェルケゴール以来、「自由のめまい」という問題がよく考えられるようになりました。自由であることを求めて来た西欧社会でしたが、いざ自由を手に入れると、却ってどうしてよいか分からなくて困る、という心理が生まれます。親の後継ぎをすることが当たり前だった時代は、職業選択の自由はありませんでしたが、却って迷わず打ち込めていたかもしれません。自分で自由に職業を選んでよい、となると、さあどうすればよいのか、迷います。自分はいったい何を求めているのか、自分とは何か、というアイデンティティを問わねばならなくなるのです。
 
「自己実現」が人生の目的のように見なされるようになったこともあり、益々「自分探し」が必須となりました。「本当の自分」を見つけることが、通らねばならない「青春の門」となったのです。いまは記事が増えないとのことでしたが、むしろ「自分探し」が当たり前のこととして定着していることを示すのかもしれません。
 
◆刺激的な箴言
 
今日は箴言をお開きしました。どうにも、お子さまには相応しくない箇所を取り上げてしまいました。聖書には、とても人前では口にできないようなおぞましい話や、恥ずかしい表現がいくつもあります。旧約聖書の律法には、いったい礼拝説教で開かれたことがあるのだろうか、と思われるような箇所もあります。今日の箇所も(Restrictedの意味である)R-18指定であってもおかしくはないと思ったので、果たしてここからの説教原稿があるのかしら、と気になって検索してみましたら、いくつかありました。
 
すでにお読み戴いたということで、繰り返し内容を追うことは致しません。ただ、その問題の場面に入る前に何がなされていたかというと、最初は父親が息子に諭していたのですね。戒めを守れ。ここで父親は、神の役割を果たしているように見えます。知恵と分別に親しめ、というのも、至って人間的な父親の教えであると共に、神から私たちへ下される命令であるとして聞くべきものだろうと思います。
 
戒めを守らないと、どういうことになるか。父親は、窓から見えた、愚かな若者の話を息子に聞かせます。敢えて昔風な、露骨な表現をとりますことをお許しください。この若い男は、女を買いに行くのです。日本で売春防止法が制定されたのは1956年。しかしこれは、公道での勧誘や組織的な周旋(斡旋)を取り締まるための法律であり、売春行為それものを処罰することはできないものでした。
 
新約聖書の中には、遊女または娼婦という職業の女が現れます。もちろんエリート宗教家たちは、彼女たちを「罪人」と呼びます。イエスもそうした女性と出会っているであろうことが分かります。
 
しかしここで登場する女は、そういうプロではありません。人妻です。若い男が欲しいのです。自宅に連れ込むのですから、ずいぶんなやり方です。姦淫は、律法においても死刑の可能性が高い重罪でした。その際、男の側の処罰が薄いとか、その後の歴史でもやはり女は酷い罰を食らっているとか、男女問題として取り上げなければならない点は多々ありますが、今日はご勘弁ください。女を財産としてみる眼差しなど、いまもなお省みなければならない問題がひしめき合いますが、ご容赦願います。
 
若者は、女の家へと歩んだと書かれていますが、女の家を知っていて目指したのではないと思われます。女を探していたら、その女に目をつけられた、と考えておくことにします。女の、儀式めいた様子は、神のお墨付きだとして良心を麻痺させる手段でしょうか。夫が出張中であることをいいことに、ここでの女は「若いツバメ」が欲しかったかのように感じられます。
 
◆誘惑する者
 
若者は、その女のもとへと吸い込まれていきます。そして蜘蛛の巣にかかった虫のように、女のいいなりになります。父親の息子への説明は、実にリアルです。その若者とは父親自身のことではないのか、と勘ぐりたくなるほどに、生き生きとした描写です。ともかく、息子にはその臨場感あふれる説明が、怖いくらいに身に染みて感じられたのではないでしょうか。
 
確かに、この若者は愚かです。聞く息子からしても、愚かに思えたことでしょう。もっと小さい子どもであってよいのですが、子どもは、こうした大人の脅しに、けっこう震え上がります。自分は良い子だからそんな失敗はしないぞ、と避けるようになります。子どもはルールに対して潔癖なのです。
 
でも、好奇心がそのうちに育ってきます。大人の脅しが世界の真理ではない、ということに気づいてきます。この過程があるからこそ、子どもの心は成長していくのです。たとえば、小さいころには、赤信号は絶対のルールでした。しかし、中学生になると、赤信号でも情況によるということが分かって、必ずしも守らなくなります。信号を守るというのが絶対の目的ではなくて、安全こそが目標であると理解するようになるので、安全が確保されれば、赤信号には従わなくてよいことを知るのです。
 
そんな具合に、自分で事の善悪を判断するようになります。このくらいのことは、守らなくていい。ちょっとくらい構わない。そんなことを自分に言い聞かせるようにしながら、大人へと近づいていくのです。ただ、そのちょっとくらいということが、とめどなくこのルール違反を肯定するようになるという危険性は、やはりあるとすべきでしょう。
 
聖書を信じたとき、皆さんは潔癖さをもっていませんでしたか。受洗したとき、あらゆる悪から離れようとし、ピューリタンのような生真面目さで自分は生きるのだ、と誓っていませんでしたか。
 
だとして、いまはどうですか。そのままですか。それとも、丸くなりましたか。ありがちなこととして言いますが、そのうち「そこまでしなくても」という気がしてきて、ブレーキを緩めるようになることがあると思うのです。「聖書はそこまで要求していないぞ」と自分に言い聞かせるようになって、「この世で生きることも大切なのだ」などと言い始めると、ついにはブレーキから足を離すようなことにもなりかねません。
 
ここに出てくるのは、男が女に誘惑されるという図式です。クリスチャンと名のる男でも、この罠に陥る人は、実際います。牧師にも、あります。刑事事件になったこともあります。特にカトリックの司祭には、それに関する事案がかなり歪んだ形で多数現れてきて、大きな問題になっていますが、プロテスタントの牧師にしても、かねてから深刻なケースが幾度か起こっています。
 
それは、男が女に、という図式で収まるものではありません。様々な型があります。つまり、この箴言では若い男が人妻と関係をもつ、という事例が使われていますが、これはひとつの象徴事例だという理解を、私たちはする必要があるはずです。当然、何か別のことをもひっくるめて考えるべきであるし、さらにどこか抽象的にもなりますが、この「女」というのが何かを暗示しているものと見なすことも求められているのではないか、と考えます。
 
そう、私たちを誘惑する者がある、という眼差しが必要です。
 
◆傍観者と当事者
 
共観福音書にはどれも、イエスの宣教が始まる前に、悪魔またはサタンから誘惑を受けた記事が書かれています。パウロは、終末の夫婦関係の中で、サタンが誘惑する可能性を示唆しています。
 
「サタン」という呼び名は、ヘブライ語に由来します。ギリシア語では「ディアボロス」と訳され、日本語だと「悪魔」となります。この語自体は、仏教の言葉です。ここでも仏教用語を借りていることになります。「礼拝」だの「懺悔」だのと同様です。
 
かの若い男は、この悪魔に魅入られてしまった、と理解できます。長く描写されるその顛末を、この父親が息子に話しています。息子は、この物語を、どう見ているでしょうか。父親が話の前後で、戒めを守るよう注意を促していますから、心して聴いているのだろうと思います。けれども、もし私がこの息子であったなら、どんな思いでいるだろうか、というと、決して父親が願う形ではないような気がするのです。
 
その若者は、愚かなことをした。そんな女のところに入ったらダメになるということくらい、ちょっと考えたら分かるじゃないか。俺はそんな馬鹿なことはするものか。いけないことはいけないんだ。一時的な快楽で、人生を棒に振っていいものか。
 
え、あなたはそんなことは思わないですか。では、他の問題で試してみませんか。自分だけはそんなことはしないぞ、と胸を張って言えないことが、ありはしませんか。
 
詐欺というものは、「自分は引っかからない」と思い込んでいる人をターゲットにしている場合があるそうです。そのような自信のある者こそ、実は危ない、とも言われます。私も経験があります。何かちょっとしたタイミングや言葉の選び方があって、相手の思う壺に嵌まり、言いなりになってしまうということが、ありうるのです。ふだん理性的に疑っているようであっても、不思議なエアポケットのようなものに、ふと落ち込むということが、あるのです。
 
自分を信じている、というのがその罠に嵌まる理由であるような気がします。自分で自分を頼っているわけです。自分を保証するものが自分でしかない限り、危うい状態の自分をも、自分が無根拠に保証しているようなことになりますから、客観的にはたいへん脆いということが多々あるわけです。「自分を信じる」という歌詞の歌は、いつから増えてきたのか知りませんが、少し検索してみるだけでも、このフレーズが何百と引っかかってくるはずです。そんなに自分を信じたい空気があるからには、こうした詐欺はまだまだ続くよう懸念されます。まるで、神ではなく自分を信じる宗教が蔓延しているようでもあります。
 
これは息子、つまりかの事件を外から見ている立場からの危険性です。確かに、観察する学びは大切です。これもひとつの経験となるでしょう。けれども、かの若者の目からこの事態を見ると、どういうことになるでしょうか。これを描くと文学になると思いますが、ぜひこれをそれぞれの方が試してみて戴きたいと願います。対象は「女」でなくてよいのです。もちろん逆に「男」でもいいし、「甘いもの」でも「お酒」でもよいわけです。「インターネット」や「推し」などはどうですか。
 
そのように入れ替えてみると、あなたにとって、この若者の姿は、決して他人事ではなくなると思います。つまり、あなたは傍観者に留まることができなくなって、当事者になるのです。だったら、聖書の記事は須く、そのように読むのがよいと私はお薦めしたいところです。
 
でも、分からないのです。私たちには、そんなふうに簡単に自分を認識はできないのです。自分がいま、この若者の状態にあるということなど、そうそう分からないのです。
 
◆病識
 
「病識」という言葉があります。自分自身が病気であるという意識のことです。自分の病気の自覚、と呼んでもよいでしょう。告知されていない病状のときのために使う言葉であるというよりも、周りから見れば明らかであるのに、本人だけが分かっていない、という様子を表すときが深刻です。たとえばアルコール依存症のときにもそれはあるでしょう。さらに、精神疾患の場合には、より厄介になります。ある本(『自分の「異常性」に気づかない人たち 病識と否認の心理』)で、精神病棟での実例を幾例か紹介していました。意識や自覚というのはメンタルな問題ですから、そこに問題があると、病識を有することが難しくなることは、私でも想像できます。
 
病気ではなく「罪」という問題について、「人間には二つの物差しがある」とよく話していた人がいます。1999年に地上生涯を終えた、クリスチャン作家・三浦綾子さんです。自分を測る物差しと、他人を測る物差しと、人間は二種類の物差しをもっており、巧みに使い分けている、という喩えは、講演会でもよく話していたと聞いています。若い方は、もうあまり読まれないかもしれませんね。しかし、高校生の読書感想文の優秀作品では、三浦綾子さんの『塩狩峠』がいまなお読まれていることが多いことからしても、心をえぐるような体験を与えてくれる小説が多々あります。すべての作品が、祈りにより生み出されているからだ、と私は思います。
 
同じことをしていても、他人ならば「あれは罪だ」と言い、自分ならば「これは罪ではない」と思いたい。そんな心理は、よく分かります。けれども、それが常態となるとき、クリスチャンはもうクリスチャンではなくなっていきます。人間にはありがちな態度ではあるけれど、そこから救われるのがクリスチャンである、神を知る者である、と私たちはかの言葉を受け止めるとよいように思います。
 
きょうだいの目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目にある梁に気付かないのか。(マタイ7:3)
 
山上の説教の中のひとつの言葉です。クリスチャン生活に慣れてくると、山上の説教をあまり読まなくなるのではありませんか。有名だものね、もうよく聞いて知っているよ、そういう人もいるでしょうが、そこを挙げたいのではありません。私が思うに、そこを読むと、痛いからではないでしょうか。信じている以上、拒むことはできない。だが、そこを読むと、自分の罪がばんばん指摘されるようで、辛い。ズキズキと感じるからこそ、向き合いたくない、という心理があるのではないでしょうか。自然、目を背けるようになっていく……などというと、捻くれた見方になってしまうでしょうか。いや、これは私の心情だ、というだけに留めておくことにしましょうか。
 
それにしても、旧約聖書を調べてみると、天秤の錘や升の大きさをごまかすなというような言葉が、幾度出てくることでしょう。律法の書から箴言、預言書まで様々です。商売の場で、それらを不正に用いることがどんなに社会的に拙いことか、は想像がつきますが、私たちは自分の「罪」については、全くそのように計量において不正を繰り返しているのではないでしょうか。
 
自分探しについて今日は考え始めましたが、自分を探そうにも、その自分について自分が偽っていたとしたならば、いったい自分の何を知るというのでしょう。
 
とはいえ、自己認識というのは原理的にできない、というような古典的な説明があります。単純にだけ申し上げますが、いま仮に自分というものを見つけたとします。ところがその見つけたのは誰でしょう。自分だよ、と言うと、見つけられた自分とは別に自分がいることになります。死んでいるのが自分だと勘違いして、「抱かれてるのは確かに俺だが、抱いてる俺はいってえ誰だろう?」とオチがつく、落語の「粗忽長屋」のようなことが起こります。その自分を認識するために、また別の自分を要請することになり、こうして無限遡及が起こる、というのです。
 
主観と客観を分離してしまうために、こんな論理が走ってしまいます。近代哲学がこれに悩まされ、その解決が、現代の哲学への道を拓きました。
 
◆パウロの葛藤
 
ただおとなしく「自分を知ることができない」、とぼやいているだけなら、まだましなのかもしれません。人は、ただ静かに知るだけで生きているわけではありません。人は、行動します。今日も、明日も、汗水垂らして働かなければ、明日の生活がありません。すると、自分のしたこと、行為というものが、どうしても気になる場合があります。
 
自分はこんなことがしたかったのではない。自分はよくないことをした。もう取り消せない。迷惑をかけた。ひとを傷つけた。時計の針を戻せないだろうか。ああ情けない。こんなことをしたのは、自分ではない。なかったことにしたい……。
 
自己嫌悪という言葉は、最近は流行らないでしょうか。自己嫌悪という言葉を出すことで、一旦若者は悩む段階を経験していたのです、かつては。それがいまは、いきなり「消えたい」になり、「生まれてこなかった方が良かった」へと突っ走ってしまうことが多いといいます。そのため、ちょっと思い悩んだら、「反出生主義」の本を手に取って、妙に納得することがあります。「反出生主義」については私も興味がありますし、そういう主義があることを知る前から、考えていたことがありました。でも、そうした「解決」を早急に求めるのは、少し待ってくれませんか。時間をくれませんか。
 
たとえば聖書に、そこから逃れる道があるかもしれません。聖書にも、同じように悩み苦しんだ叫び声が潜んでいることがあります。ローマ書から、有名なパウロの言葉を引きます。
 
15:私は、自分のしていることが分かりません。自分が望むことを行わず、かえって憎んでいることをしているからです。……
19:私は自分の望む善は行わず、望まない悪を行っています。
 
これはかつての自分のことを思い出しているのか、まさにいまパウロがこのように吠えているのか、いろいろな解釈もあるようです。が、もしかするといまこのパウロの叫びに、心を重ねたいと思っている方も、いるのではないかと思います。自分を見つめているのです。でも、自分がやっていることが、自分で信じられない、認めたくないような状態なのです。
 
17:ですから、それを行っているのは、もはや私ではなく、私の中に住んでいる罪なのです。
18:私は、自分の内には、つまり私の肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はあっても、実際には行わないからです。
 
いや、これを指せているのは「罪」だ。罪を擬人化することが良いか悪いか私には分かりません。「罪」なるものに罪を着せて逃げているのではないか、と疑う人がいるかもしれません。そうかもしれません。けれども、自分のせいにしても解決はできません。もし「罪」のせいだとすれば、その解決が、なんと聖書にはあるのです。
 
イエス・キリストが、「罪」の問題を、すでに解決しているのです。
 
◆ぼくは探された
 
キリストは私たちの父なる神の御心に従って、今の悪の世から私たちを救い出そうとして、私たちの罪のためにご自身を献げてくださったのです。(ガラテヤ1:4)
 
このような言葉は、新約聖書に沢山あります。できれば「私たちを」に留まらず、「私を」にまで進めて戴きたいと願います。そこに福音があります。いや、なんでキリストの十字架が自分の罪と関係があるのだ、とお思いの方もいるでしょう。当然です。その関係が、最大の問題でもあるからです。
 
ほんとうの自分を探す。そうしたモチーフから、このお話を始めました。ただ、私が私を探すというところに、なんらかの無理があるということも、薄々分かってきました。その気持ちで、神というものを探せばよいのか。そうお考えになるかもしれません。確かに、それも嘘ではないと思います。けれども、神というものが、私などとは比較にならないくらい大きいものだと認めるならば、私から神の全体を見渡すことができないことを知るでしょう。逆に神の側からすれば、小さな私ですが、私の全部を見ることができるということにも、気づくだろうと思います。
 
そんな小さな私を、神が探していました。そして、見出してくださいました。私が私を探し回る必要などなく、すでに神が私を探していたのです。ここに福音があります。これは驚くべき情報です。神はすでに私を見出してくださっているのです。神の知る視界の中に、もう私がいます。目を留められているのです。私が私を見出そうとすると、粗忽長屋になる虞があります。けれども、もうあなたも、神に探し出されているのだと思います。だからこそ、こうして聖書からのこのメッセージをいま聴いているのです。
 
この言葉を聴くからには、間違いなく神はあなたを見つけ出しています。神の目の中にあなたがいます。神はご自身の目の瞳のように、すでにあなたを守っています。神の知恵に、神の分別に、すでに与っているはずです。神は、「ぼくを探しに」来てくれたのです。
 
私は、愚かな若者の姿を見て人生訓を得る、あの息子でもありました。同時に、誘惑者に容易に引かれていくその若者そのものでもありました。自分でもそのことに気づかないほどに、自分というものが分からないのが人間でした。そして、神と自分とについて何らかの結びつきを得た後であっても、あのパウロのように自己嫌悪に叫び続けなければならないような者でもありました。
 
でもだからこそ、イエス・キリストに会えたのでした。あるいは、これから会えるのであります。この方は、あなたを探してきました。もうあなたを見つけています。あなたは、探し出されました。そのことに気づくならば、もう安心です。どうか瞳のように、この良い知らせを、守ってほしいと願います。つまり、いましばらく、心に留めて戴きたいということです。いましばらくの間……。



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