聖書と生きる礼拝
2022年11月6日
聖書を読んでいる、というだけで、人間が善くなるわけでもない。だのに、勘違いをするのが人間というものだろうか。そうした人間の醜さやつまらなさの故に、聖書そのものが貶められるということもありうる。しかし、それもまた違う。
聖書自体、人間たちが集い、これは聖書だ、これは聖書ではない、と決めたものであることは間違いない。外典になったから、神の言葉ではなく、正典だから神の言葉である、と峻別してよいのかどうかも分からない。
それぞれは知恵の言葉であり、救いの言葉になりうる。言葉が神であるという意味は、言葉を通して神が私たちと出会ってくださる、というふうに捉えたい。
だから、聖書の言葉を権威として、自分はその聖書を説明しているが故に、自分は正しい、という路線を邁進しているような輩には、反吐を吐くような思いがする。もちろん、自分がそうでありたくないし、そうであるのを止めたいという姿勢がその根柢にあっての物言いではあるが。
聖書を語るとなれば、それなりに責任が伴う。礼拝で語るとなると、それはひとを生かす働きをもたらすものであるはずだ。聖書について通り一遍の解説を施すだけのさもしい時間を忍耐するために、礼拝に出るのではない。神はその都度、目を開かせてくださるだろう。新しい歌を主に向かって歌う力を与えるだろう。
そこからのみ、「では自分は人に対して、社会に対して、何ができるのだろう」という問いが生まれる。そういう人間を、キリスト者と呼ぶのであれば、安心できる。なんとなく聖書の解説を聞いて、「聖書のお勉強ができました。だから私たちが社会に対して発言することは正しいのです」という気持ちには、私はさらさらなれない。
恵まれた自分は、苦しい立場の人のことをその通りには理解できないだろう。それでいて、正しいことを言っている英雄気取りになることは、厳に慎まなければなるまい。だがきっと、イエスならばそれができる、というふうに信頼をする。できるのは、そう口にすることくらいでしかない。助けられなければならない人のことを第一にしたいが、自分を誇るようなことには、よくよく注意しなければならない。
いろいろな思いが錯綜する。実際に自分が何もできていないことを嘆くと共に、だからこそ神に働いて欲しいという願いばかりがこみあげてくる。ここにしか、頼るところがない、という切なる思いと共に、また礼拝の場に行き、いのちの言葉を受けようと求める。その言葉に助けられて、また次の一歩を踏み出す。それが永遠に続くわけではないにしても、永遠であるかのように信じていられるのだとしたら、それは幸せなことなのだろう。
それが聖書と生きることだろうし、聖書により生かされるということなのだろう。そのときにこそ、礼拝がありうるのだろう、といまは思う。