群衆の怖さ

2022年11月2日

ソウルの繁華街「梨泰院(イテウォン)」で多数の死者や負傷者を出した事件が、痛々しく報道されている。2002年10月末のことだ。韓国でも、若い人たちを中心として、ハロウィーンの騒ぎは大変なもののようだ。
 
韓国では、3月頃が一番新規感染者が多く、一日あたり60万人を超える日(16日)もあった。事故の日のころにも日々3万人以上の新規感染者を数えており、人口が日本の半分以下であることを思えば、決して安心できる数字ではない。だが、ニュースの映像を見る限り、マスク姿こそ多けれど、コロナ禍を感じさせないような密集度であった。
 
専門家は「群衆雪崩」という語で説明していた。観客の誘導など、そうした研究はよくなされており、オリンピックの時にも専門家がその指導をしている。明石の花火大会での歩道橋事故などを教訓として、近年イベントに先回りする形で対策が立てられていた。韓国でのことはどうだか分からないが、あまり対策が先行していたようには聞こえない。だが、警備の責任だけにするのも奇妙である。世に犯罪があることが、警察が原因だ、と決めてしまうことには、誰もが抵抗があるだろう。こうした事故は、基本的に、無秩序な集団によって発生すると考えられている。
 
2021年9月、Eテレの「100分de名著」という番組が、ル・ポンの『群衆心理』を1か月にわたり取り上げた。私も興味深く観た。テキストからも学び、原典(もちろん邦訳)にも触れた。1895年に発行された名著である。この内容については、私の観点からすでにご紹介したことがある。以下、そのままの形で置いてみよう。
 

『群衆心理』(ギュスターヴ・ル・ボン/100分de名著2021年9月放送テキスト)
 
邦訳だがすでに関心をもって新しい訳のものを読んでいた。それは私の中に大きな位置を占めた本となった。百年以上も前に指摘されたことが、私の常々考えていることに大きく重なってきたからだ。当時の社会慣習や背景と今はもうずいぶん変わっている。もはや古典として、そのままでは使えないかもしれない社会心理の指摘ではあるが、私は今だからこそ改めて通用することを知る面もあると考えていた。
 
今回の100分de名著のテーマがギュスターヴ・ル・ボンのこの『群衆心理』であることを知ったとき、テキストを買うかどうかは迷っていた。内容については知っているものだったからだ。だが実際に書店でこのテキストを見たとき、すぐに、これは良い角度から解説されていると感じたので、購入した。
 
とにかく心得ておきたいことは、私たち自身が、ここで指摘されている「群衆」である、ということである。他人事として眺めてはいけないということに尽きる。だがそれにしても、特に第2週は厳しい。そもそもこの「100分de名著」という番組自体を崩壊させるような言及がある。そのような点は、少し前にブラッドベリの『華氏451度』のときにも触れられていたが、今回はもっと突っ込んだ形で告げる。群衆は深く考えようとはせず、簡単にまとめたもので全部分かったように思い、他人に考えてもらうことで安心する、そこに危険性が伴うということを指摘するからである。もちろん、そういうことは、この番組自体を作り上げた著者自身の矛盾に触れることになるのであるが、それを見落としてそう言っているのではないから、後は直に読者あるいは視聴者である皆さんがお考え戴きたい。従ってここでは、内容紹介はしない。そのような内容紹介こそが、本書から学ぶべきことに反するからである。
 
私たちは、この現代社会に生まれ落ち、そこで教育された。知っている現実世界は、私たちの時代のものである。それは、現代のバイアスに偏ったものの見方しかできないように作られている、ということでもある。近代以来、この「群衆」へとなだれ込んできた歴史と精神構造を顧みることの意義は、限りなく大きい。自分たちはこれで正義なのだという視点を、ほんの少しでも外すことになるのであれば、このような文明観は歓迎すべきことであろうと考える。
 
しかしこの世界全体を動かすには、私たちの声はあまりにも微力である。群衆の力を以て正義とすることにしてしまったこの社会は、大きなうねりとなって全世界の現在と今後の歴史とを支配してしまうに至っている。だからと言って私たちが変えられないということはないのだが、それを押しつぶす力が、かつての大帝国ではなくて、いまや群衆であるということの自覚は、大切な押さえどころである。
 
それは、キリスト教世界にも言えるはずである。膨れ上がった信徒と教会は、ここで言われる「群衆」という視点から、見事に説明できることが多々あるように私には見受けられる。「いや違う、神を信じる者たちは特別であり、信仰により助けられているから神は私たちと共にある」というのは立派な信念ではある。だが、私は見ている。とんでもない、と。私から見れば、ル・ボンの指摘している「群衆心理」に、相当に当てはまっていますよ、と。むしろ宗教的正義感があるだけに、よけいに質の悪い側面があるほどである。「群衆」に過ぎない自分を知ること、そこから再出発するならば、この危機は乗り越えられるかもしれないが、そうでないならば、しょせん「群衆」でしかないだろうということになるだろう。
 
この番組がどのような形で放送されるのかは知らないが、とりあえず何かの刺激にはなるだろう。さらにテキストでじっくりと問題を見つめるようになればよいと願う。そしてもちろん、邦訳でよいから、ル・ボンの著作に対峙することで、自分自身や教会などについて、気づかされることが現れるようであってほしいと切に願う。そうでないと、持続可能社会とはならないばかりか、悪い意味での終わりが来る、あるいは終わりを呼ぶことになる、と私は悲観的な見解をここに提示することにしておきたいと思う。
 
最後に、悲観的な見解だけをこの本と番組は伝えようとしているのではないことは付け加えておきたい。最後には希望がある。群衆のエネルギーは、すべてが悪い方向にのみ向かうとは限らないのだ。但し、解説者であり著者である人の見解に、私はすべて賛同するというわけではない。反オリンピックの見解が正しいということは、ル・ボンの見解とは関係がないし、最後の読書感想文に関する教育についての見解は、やはりかなり個人的なもののようだし、現場についての誤解も含まれているように見受けられる。だが、この解説の最後の最後に、見事なオチがある。どうぞ私の意見に反対してくれ、と言うのである。もしこの解説にすべて賛成し満足したなら、私の解説は失敗だったことになる、というようなことを言う。その意味は、もうここまでお読みくださった皆さまには、お分かりであるはずである。

 
少し、付け加えたいことがある。自分だけは群衆ではないぞ、と抵抗している人が、実は危ないということである。中には、一人ひとり、自分は理性的に行動しているのであって、群衆に流されているようなことはない、と自負する人もいるだろう。しかし、世間はバカだ、というような目で見ている姿勢が健全であるとは思えない。何かの拍子に世間が動いたとき、人はあっという間に、そちらに動き得るからだ。誰がなんと言っても自分はこちら側だ、という信念を保つのは、かなりの勇気を必要とする。思想絡みであっても「転向」はいくらでもあったし、「殉教」したキリスト者は、ほんの一部でしかなかったのだ。
 
人は、自分の正義を基本的に前提としている。世の中からすれば意見が変わったとしても、常に自分を正当化しながら、違う立場に移動するものである。それがキャスティング・ヴォートの役割を果たすこともあるだろうし、そもそも「雪崩」のように一斉に社会が反転することさえも、十分あり得ることである。これまでの歴史が、それを証明している。
 
「戦争反対」の声が「したい人がやれば」に薄まり、「やむをえない」に変わった後に、「しなければならない」となり、ついには「なぜ反対するのだ」に移り変わっていくということは、群衆において、いくらでも起こり得ることなのである。自分はそうならない、と自分を正当化する人こそ、実は危ないと警戒すべきである。その人にとり、「反対」することが基本原理なのではなく、「自分は正しい」のほうが原理になっている時には、間違いなくそうなるのである。
 
100分de名著は、このル・ポンの『群衆心理』を、奇しくも2022年11月、再放送することが決まっていた。実に痛いタイミングとなってしまったが、他人に突き動かされて、自分の力ではどうにも動けなくなることがあることを弁えたい。物理的な例を、「群衆雪崩」は示した。事故に遭った方々や、その関係者にはお気の毒で仕方がないが、それを周辺から見た者としては、精神的にその危機が迫っていることを知るべきである、と叫ばなければならない。




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