【メッセージ】礼拝説教

2022年10月30日

(ルカ24:25-32,マラキ3:13-16)

「道々、聖書を説き明かしながら、お話しくださったとき、私たちの心は燃えていたではないか。」(ルカ24:32)
 
◆聖書の中の説教
 
そもそも「説教」という言葉がよくありません。どうしても「お」を付けてしまいます。クリスチャンの皆さま、忘れていますでしょう。最初、教会で説教があると聞いたとき、怒られるのは嫌だ、と思ったこと、あったんじゃないですか。いま誰かを教会に誘っても、「教会では説教があるんだよ」と言った瞬間にアウトかもしれません。
 
調べてみると、聖書の中に「説教」と訳されている箇所は、二例しかありません。
 
裁きの時には、ニネベの人たちが今の時代の者たちと共に復活し、この時代を罪に定めるであろう。ニネベの人たちは、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。だが、ここに、ヨナにまさるものがある。(マタイ12:41)
 
もうひとつはルカ11:32ですが、これとまず同じです。新共同訳の場合、テサロニケ二2:15に「説教」と訳されている箇所がありますが、これの原語は先ほどの場合と異なり「ロゴス」ですから、「説教」と訳すのは無理があります。聖書協会共同訳では「言葉」と適切に戻してあります。
 
実質一箇所と言える「説教」ですが、原語は「ケーリュグマ」といいます。どこかで聞いたことがある方もいるだろうと思います。初期の教会で宣教したこと、また宣教そのものを、特にこの百年くらいで、神学用語として「ケーリュグマ」と読んでさかんに用いるからです。実は新約聖書においては、この「ケーリュグマ」は、他では正にその「宣教」と訳してあります。福音書にいくつかあるほかは、パウロ書簡と、使徒言行録でパウロに関する箇所だけです。「宣教」とは漢語からすると「教えを宣べる」と書きます。聖書やイエスの出来事、また教えなどを、それをまだ知らない人々に広く知らせて信じるように導く営みの中で、「宣教」という言葉を使うかと思います。
 
「伝道」とどう違うのか、とお思いの方もいるでしょうが、人や団体により、解釈には違いがあるように見受けられます。聖書の中での「宣教」という言葉の使われ方からすると、癒やしの運動をも含めた形で「宣教」を理解する、という人々もいます。どちらかというと、「宣教」のほうが、最近よく用いられる言葉であるような気もしますが、如何でしょうか。
 
先ほどの二例では、ヨナが説教をしたというふうに書かれています。ヨナは、神に言われた通り、ニネベの町は不信仰の故に滅びるぞ、とふれまわっただけです。これが私たちのイメージする「説教」のようには見えません。どちらかというと、こちらのほうが「宣教」に近いような気がするのですが、これも如何でしょうか。
 
すると、新約聖書の中に、私たちのイメージする「説教」というものが、なくなってしまいました。
 
◆説教の歴史
 
研究者でも神学者でもない私です。多分にいい加減な情報に振り回され、想像が加わり、時に事実とは違う見当違いのことを語っているだろうと思います。学術的な発表会ではありませんので、そこはご勘弁ください。
 
「聖書」といま私たちが見なしているものは、イエスの当時はありませんでした。けれども、権威ある文書は「書かれたもの」という言葉を用いて、信徒の間では共通知として認められていたのではないかと思います。
 
古代において、本は黙読するものではなく、声に出して読み上げるものでした。そもそも読み書きができる人自体が限られているわけです。教会と呼ばれる共同体でも、主の日にでしょうか、集まるごとに声に出して読まれていたことでしょう。読める者が読みます。
 
それから、イエスはご自分の育ったナザレに行き、いつものとおり安息日に会堂に入り、朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻物が手渡されたので、それを開いて、こう書いてある箇所を見つけられた。(ルカ4:16-17)
 
イエスは字が読めるのです。イザヤの書は巻物の形式です。それを朗読します。この後、イエスは朗読箇所から短く説教をしたことが記されています。そのとき、座ってから話し始めた(4:20)というのが印象的ですが、説き明かしをしたのです。この箇所の意味を説明し、また解釈や訓戒をすることになります。記事そのものは短いのですが、少しいまの私たちにもつながるような「説教」の姿を垣間見るような思いが致します。
 
教会の歴史においても、ずいぶんと古い時代の「説教」が遺っています。いまの時代にそれを読むと、違和感を覚えるかもしれませんが、読むだけでも、なかなかどうして、優れたメッセージだと思わせるものがあります。『世界説教史〈1 古代‐14世紀〉』は、四半世紀以上以前の本ですが、いまも入手可能ですので、関心がおありの方にはお薦めします。
 
日本史で、応仁の乱以降だと、いまの私たちと会話が可能ではないか、と想像されるそうですが、説教についてもいまそのまま語っても違和感がなくなってくるのは、ルターの頃ではないか、と私は想像します。宗教改革は、その応仁の乱のちょうど半世紀後です。プロテスタント教会では、やはりルターに重きを置くことが多いでしょう。ルターは、偶像礼拝につながるようなものを礼拝から排除しようと努め、いまに続く礼拝形式をつくっていったと考えることも可能だろうと思います。賛美歌に対するルターの熱い思いは、いまもっと取り上げられてよいのではないか、とも思います。
 
◆礼拝の説教
 
礼拝のプログラムは、教会によりずいぶんと異なります。招詞から詩編交読や主の祈りや祈りを、賛美歌を、挟みながら展開し、聖書朗読から説教、賛美と献金から祈り、というような流れに私は親しんでいましたが、ある教会は、招詞から賛美でもうすぐに朗読と説教に移り、主の祈りなども皆その後でした。献金を、説教前にするところもあります。
 
礼拝の歴史や意義については、由木康氏の『礼拝学概論』という力作があります。礼拝プログラムにはそれなりに意味があって、神の側からの言葉と、人の側からの言葉とが、交互に形成されている、という基本があると見られています。神が聖書の言葉を私たちにもたらす。私たちはそれに対してレスポンスする。こうして、礼拝の場は、言としての神が働く場となります。
 
すると、「説教」というものは、神が私たちに語りかける、最も長い時間であり、最も重い礼拝の要である、と理解してよいでしょうか。一般のプロテスタント教会では、たぶんそれでよいだろうと思います。すると、私たちは礼拝において、ただ説教を聞けばよい、というものではなさそうです。神の言葉と人の言葉との交流が礼拝の基本姿勢であるのなら、語られる説教に対して、聴く側は応えなければなりません。ここまでを含めて、礼拝が成立するような気がするのですが、皆さまはどうお考えになりますか。
 
ですから、礼拝は、宗教的な一つの儀式ではありますが、ただの儀式ではない、ということになります。ですから、誰か目立ちたい者が、聖書を使って言いたいことを喋ると、儀式は形式的に調うかもしれませんが、それは決して「説教」にはならないのです。真剣に聴く者が会衆にいれば、そんなものではだめだと声を挙げるのですが、そもそも誰もまともに聞いてなどいなくて、「説教」に関心がないのであれば、議論になることもありません。
 
説教の内容について、私は幾度も、語った説教者に質問をしたことがあります。礼拝直後、その人がフリーであれば、分からなかったところ、関連しているのかどうかの疑問など、尋ねました。いわば一番ホットな話題です。大抵の人は、丁寧に説明をしてくれましたし、もっとこういうのが言いたかったのだが、のような裏話のようなものも聞かせてくれました。
 
説教要旨を、配付する教会もあるでしょう。読んでいますか。私は比較的よく読むほうです。しかし、一時期読むのを止めていました。読むべき内容ではなくなってきたからです。でも逆に丁寧に読んでこそ、説教をよくする道が拓けると思い、読んでみると、これが散々なものでした。誤字脱字、主語述語も合わない、まるで文章になっていない代物だったのです。偶々ではなく、毎週そうでした。これを、誰も問題にもしないということが、誰もそれを読んでおらず、説教に関心がないということの証拠であると言えるでしょう。
 
いったい、教会にとり、「説教」とは何なのでしょう。少なくとも歴史を見るかぎり、教会にとり説教はとても大切なものであったはずです。骨抜きの礼拝は、「礼拝ごっこ」に過ぎません。うわべだけ礼拝の形式を見せかけているだけの、仲良し倶楽部の例会でしかないのだとすると、私はもう堪えられなくなりました。
 
◆心燃える説教
 
さあ、ようやくルカによる福音書を取り上げてお話をします。遅すぎます。この悪い癖を改めようと願っていますが、しかし聴く側の心の中に、間仕切りを予めつくるという仕事も、魅力があるものです。ある思考の溝をつくっておき、いまからその中に良い知らせを流してみたいと考えています。
 
先ほど、イエスが会堂で「説教」をしたことに触れました。真摯に「説教」を生み出す側の苦労は、並大抵のものではありません。聴く側が専らであるような方で、説教を生み出すことについての具体的な営みについて関心がおありの方には、クラドックの『説教 いかに備え、どう語るか』をお薦めします。これさえあれば、説教を生み出す過程について、分からないことはなくなるでしょう。しかし、それに加えて、服装や声の出し方など、説教をより具体的に語るすべての事柄へのアドバイスを欲するならば、少し古い時代の本になりますが、スポルジョンの『説教学入門』(ティーリケ編)が面白いと思います。
 
しかし今日は、説教を語る側ではなく、いましばらくは、聴く側の立場に徹してみようかと思います。それも、礼拝の場面、いかにもの説教の場面、そうしたものでないところから、「神の言葉を聴く」とはどういうことか、ひとつの体験をしてみようと願っています。
 
それはイエスの復活後、いわゆる「エマオへの道」でのイエスの出現のシーンです。イエスの十字架を目撃した、二人の弟子がいました。ひとりの名はクレオパと記録されています。どうして一人だけ名が遺されたのか、意図はよく分かりません。もしかすると、ルカの教会に、このクレオパの関係者がいたのかもしれません。
 
イエスは、この二人に近づきます。イエスのほうから、その話に入り込んできたようなのです。何を話しているのかについては、きっと分かっていたはずなのに、分からないふりをして、首を突っ込んできました。クレオパは、イエスのことでこれ以上ないくらいに落胆している様子を示していました。そこで、イエスは「ああ、愚かで心が鈍」いものだ、と注意を惹きます。それから、キリストたるものはどうしてキリストなのか、ということを教えるために、「聖書全体にわたり」、キリストに関することを説明するのです。
 
二人は、心燃やされていました。このことは、この場面には書かれていません。後で分かります。目的地に着いた二人は、「なおも先へ行こうと」するイエスを引き止めて、今晩もっと話を聞かせてほしいと願います。家で食事を始めますが、そこでイエスが「パン裂き」を始めます。「パン裂き」は、使徒言行録にあるように、初期の教会ですでに始められていたであろう儀式でした。これを見て、二人の意識が変わります。「これは主だ」と分かるのです。
 
不思議なことに、その瞬間、イエスの姿は消えていました。しかし二人は残念がりはしませんでした。イエスの視覚的な姿は消えましたが、二人の魂の中に、はっきりとイエスが遺ります。
 
32:二人は互いに言った。「道々、聖書を説き明かしながら、お話しくださったとき、私たちの心は燃えていたではないか。」
 
これです。「聖書を説き明かしながら、お話しくださった」ことは、いま私たちが、礼拝の中で「説教」に期待していることです。語る方もまた、「説教」の中でこれをやろうとしていたはずです。その直接的な影響は、「心が燃える」ことでした。聴く側に必要な願いは、心を燃やしてくれることです。冷え切った自身の心を、冷え切った社会を、神の言葉で熱く燃やしてほしい。燃えるというのは、エネルギーが与えられるということです。神のエネルギーということは、「命」と呼び換えてもよろしいでしょうか。これこそ、「説教」に必要なことだ、というのが、このひとときで、私が皆さまにお伝えしたかったことだったのです。
 
◆受ける者にとっての説教
 
このとき、語る方はどうだったでしょうか。あくまで聴く側を主役にしつつも、語るイエスについても想像をしてみてみます。二人はイエスについて非常に信頼を示していた話しぶりでありました。イエスは耳を傾けながら、それを知ったのだと思うのです。きっとそれで、自ら語り聴かせようというつもりになったのではないでしょうか。つまり、聴こうとする側の思いや求めに応じて、神の側も、喜んで語りかけてくるものだ、と理解してみたいのです。受け容れる側の姿勢が調っていたならば、語る側も、もっと語りたくなる。訊かれないことまでも、もっと説明したくなる。そんなものではないでしょうか。
 
学習塾で、日常的にそれは経験しています。質問するというのは、中学生にはけっこう勇気が要ることだろうと思います。それが分かっているから、質問をしてきた生徒には、勇気あるなあと感心しますし、やる気を感じます。そこで、よい質問だね、と労ってから、たっぷりと説明のサービスをします。訊かれていないことまでも、ここにも注意するんだよ、とか、ここはテストに出やすいからね、とか言うのです。自分をイエスに重ねるなど畏れ多いことをするつもりはありませんが、ここでイエスが饒舌に語っているのは、きっとこの二人の側に、受け容れるだけのものがあると見抜いていたからであろう、という気がしてならないのです。
 
25:そこで、イエスは言われた。「ああ、愚かで心が鈍く、預言者たちの語ったことすべてを信じられない者たち、
26:メシアは、これらの苦しみを受けて、栄光に入るはずではなかったか。」
 
冷たく読めば、この「愚か」や「鈍い」は、非難の言葉になるでしょう。でも私はそうは思いません。生徒にも、それに近い言葉で私も言うことがあるのです。但し、目は百%笑って、言うのです。このときのイエスも、笑っていたに違いない、と私は想像します。「ばかだねぇ」と、愛情をこめて口にすることは、ありませんか。信頼関係が築かれていないと、この言葉は下手をすると訴訟ものになります。けれども、愛情たっぷりの関係の中では、互いの距離を近づける魔法の言葉にもなり得るのです。私はここに、イエスの愛を感じます。
 
イエスは、二人にどっぷり付き合うつもりはありません。私も、質問者をいつまでも追いかけてはしません。イエスは二人と別れようとしていました。「なおも先へ行こうと」していたのです。復活のイエスは、さらにこの福音を知らせる相手がいる。もっと伝えなければならない人々のところに向かって行こうとする。そこへ、この二人の熱意というものが現れます。「無理に引き止めた」のです。イエスも、二人の情熱を知っていたからこそ、この求めに応じます。
 
私たちも、もっとイエスを引き止めようではありませんか。祈るとき、どう言っていますか。イエスさま、何々してください、アーメン。これでいいですか。後は神さまが聞いてくださる。それが信仰というものですか。心を燃やされた私であれば、そうそう引き下がりはしません。神さま、もっと聞いてください。もっと豊かに交わる時間をください。神のその恵みに浸らせていてください。もっと教えてください、もっとそこにいてください。そうです。引き止めようではありませんか。無理にでも、よいのです。ほかの人の祈りも聞かなければならない、などと先を急いで私を蔑ろにするようなイエスではありません。いつでも呼ぶのです。いつでも、聴くのです。引き止めるのです。
 
◆切実な説教
 
この礼拝、教会の礼拝を、司式や説教などで導くのが、牧師です。あらゆる意味で礼拝の準備をすることが、そして礼拝を遂行することが、牧師の仕事です。安息日には仕事をしてはならない、と教えながら、安息日に一番仕事を強いられるのが、牧師です。なんとも矛盾した仕事です。
 
信徒が日曜日の朝、教会に集まってきます。牧師の目から見て、どうでしょうか。毎週毎週デジャヴのように繰り返されるその光景に、いつしか慣れっこになりはしないでしょうか。毎週のその出来事が、当たり前のこと、ルーチンワークのように見えるようになってはいないでしょうか。自分が日曜日に教会に来るのが、仕事でもあるし、当然すぎるほどに当然になっているために、誰もが当然のように集まってくるような気になっていないでしょうか。
 
けれども、中にはいろいろな信徒がいます。過激な仕事のために、体も心も重いまま、しかし信仰の心に鞭を当てて、逆にまた信仰に引きずられるようにして、教会に足を運ぶ人もいるでしょう。精神的に堪えられないような情況に置かれているために、どうか今日の礼拝の中で御言葉が与えられますように、と祈ってくる人がいるかもしれません。心が暗い、疲れている、どうか一週間、その聖書の言葉を握りしめ、それによって支えられ、歩み続けられる、そんな御言葉を期待している人も、きっといると思います。神からの言葉が欲しい、その一心で、教会を目指して決死の思いで来る人が。
 
さらに言えば、集ったその信徒が、次週の礼拝に来ることができるとは限りません。仕事の都合を言っているのではありません。その礼拝が、生涯で出席した最後の礼拝になるかもしれない、ということです。その人が生涯で最後にライブで聴いた説教であるかもしれない、語る側に、その覚悟があるでしょうか。one of them で軽くしか考えていない語り手と、その都度の最善を願う語り手とでは、質的に完全に違うのではないでしょうか。
 
たとえ一部の生徒がやる気をなくしていても、この授業に懸ける、とでもいう気持ちで、塾の授業を聴いている生徒が、きっといる。そういう思いで語るのでなければ、塾の教師は務まりません。牧師の皆さま、説教する方々、如何ですか。先のような切実な、いわば命懸けの求めに応ずる心づもりで、毎週の説教を語っていますか。
 
恰好がつけばよいとか、教会を大きくすればもっと多くの人に自分が注目されるのにとか、あるいはまた、政治の悪口を言えば自分を正しく見せることができるだろうとか、そんな程度で作文を読み上げているような人はいないでしょうか。聖書の言葉を、教案誌や注解書で説明し、最後に教訓めいたことを述べてまとめて、いい説教ができた、と自己愛に満ちた満足感を抱いている人はいないでしょうか。
 
自分が神から与えられて語る言葉は、祈りの塊であるはずです。それの報酬と呼ぶのはおかしいかもしれませんが、現実的に、血と汗の代償として得た信徒の収入を献げてもらい、自分の毎度の食事が与えられている、という意識がなくなったとき、それはもう、牧師という職業を辞めるべき時です。その人が悪口を言っている政治家たちは、そうやって血税を、当然のものとして懐に入れて贅沢をしているのではありませんか。
 
説教者が語るのは、神の言葉です。礼拝では、神と人とのコミュニケーションが交わされる、と私たちは理解しました。この神の言葉は、聴く者にとっては、命の言葉となります。神の言葉は命を与える言葉である、その言葉を語る説教者は、まず自ら神の前に出る必要があります。それ以前にまず神と出会わなければなりません。神の救いを得ていなければなりません。そのためには、自分の罪と向き合い、神との間に、その罪の問題が、究極的に解決されていなければなりません。その解決はもちろん、イエス・キリストによるものですが、語る者が、神との確かな関係の中になければならないのです。それが分かるのは、聖書からの言葉です。先週お話ししたように、聖書を利用して自分が読みこなすのではなくて、聖書から受けるのです。自分の中にないものを、聖書からもらうのです。
 
最低限、それが満たされていていれば、後は神が語ってくださいます。そういう説教者のいる教会は幸いです。つねに、神からの言葉が、命の言葉が受けられるからです。
 
◆説教の出来事
 
説教の肉声は、人のものでしょう。けれども、説教は、神が語るものです。語る者も、聴く者も、それを信じて、礼拝の一番長い時間を占めるプログラムを過ごします。説教は、神が語ります。そして同時に、神が聴いています。
 
その時、主を畏れる者たちが互いに語り合った。主は耳を傾けて聞かれた。主を畏れる者のために、主の名を尊ぶ者のために、御前で記録の書が書き記された。(マラキ3:16)
 
主は、私たちが語ることに、耳を傾けている方です。教会に、時折懸けられていませんか。こんな言葉が。
 
Christ is the head of this house the unseen guest at every meal the silent listener to every conversation (キリストはこの家の主人である、どの食卓にも見えざる客としていまし、どの会話をも黙って聞いている)
 
どなたの祈りでしょうか。エマオでの出来事を思わせるような言葉ですが、いま見えなくとも、その声が響かないにしても、キリストはここにいる。それほどの信仰をもつならば、キリストを拝する礼拝の場に、いないはずがありません。神の臨在の場において語られる説教を、神が聴いていないはずがありません。
 
神の御心に適う説教であるならば、そのまま神の言葉として、現実となるでしょう。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」(ルカ4:21)とイエスが言う通りです。「神は言われた。「光あれ。」すると光があった」(創世記1:3)と、神の言葉はそのまま実現するのです。神の業が現れます。
 
「神が力を与えます」と語れば、聴く者に力が与えられます。「神が救うのです」と語れば、聴く者の中に救われる者が現れるのです。語る言葉が、現実の出来事となります。もしその人に実現しないことがあっても、見回せば、誰かに実現しているのを目撃することができます。だから目撃者として、誰もがそれを証言する機会ができます。それが証しとなります。かつて「殉教者」とも訳された言葉である「証人」となるのです。もちろん、自分の身に起こったことを語る証しであってもよいのです。
 
今日は、例外的なメッセージをお届けしました。「説教」について説教するというのは、理性が理性自身を批判するかのような、頼りなさを、伴うものとなりました。根本的には、なんの慰めにも、助けにもならないようなメッセージになったかもしれないこと、心苦しく思っています。「聴く側の立場に徹して」お話しするなどと言いながら、いつしか語る側への願いが強くなっていってしまいました。しかし、このメッセージは、聴く人にとっても、意義があったと私は信じています。語る側が変われば、説教が変わるでしょう。説教が変われば、聴く人に、救いと力をもたらす説教が生まれることでしょう。聴く人々、すべてのキリスト者に、益がもたらされることでしょう。神の言葉が実現する説教が始まれば、世界が変わります。世界に命が与えられます。そのためにまず、心が燃える聖書の説き明かしが、教会で語られるようになることを、切に祈ります。なお、このメッセージが最後のものであったとしても、説教というものを聴いてきて、本当によかった、と思えるものでありうる語りであってほしい、そう願っていることも、付け加えさせてください。



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