言葉を考えたりとかしませんか
2022年10月27日
作文を小中学生に教えることがある。中学生となると、いろいろな大人の文章に国語で触れるものだから、さすがに感得できるようになるが、小学生だと、どうにも直らない性質がある。それは、話し言葉をそのままに文字にする、ということである。
耳で聞いて言葉を覚える幼児の段階では、文字で書いたときに発覚することがある。宿題を「しくだい」、体育を「たいく」、言うを「ゆう」のように書いてしまうのだが、これも話し言葉と書き言葉の違いの一種である。だから最初に、「ぼくわ」「がっこおえ」のような書き方からまず直していかなければならないわけである。
いま言おうとしているのは、そういうことではない。これは近年の流行なのだろうが、文頭を「なので」と書いてしまう子が、実に多い。これはいくら注意しても、なかなか直らない。
「など」をあまりにも気軽に使うのも、考えものである。「など」は、「ここではわざわざ挙げないが、ほかにも同じようなものがありますよね」というニュアンスを伝える言葉であるが、ほかのものを全く推測させえない情況でも「など」が幾度も書いてくる。
今回特に指摘したいのは、「とか」と「たり」である。「たり」ならば、書くときにももちろん使える表現ではある。だが、書き言葉である以上、それぞれ使う場合には複数回使うのがルールである。「とか」を書き言葉として使うならば、「辛いとか苦しいとか言うことなく」のようになるだろうか。「たり」も「歩いたり、走ったり」のように繰り返して並べることになる。
心理分析は専門家にお任せするが、他人に対して話すときに、断定的な言い方をすることを避けるために、曖昧にぼかす気持ちがあるとき、「とか」「たり」を使うことがよくあるように思われる。「など」も同様であろう。口では、「一緒に映画とか見たりなどしませんか」でも、何の問題もなく通じるであろう。だから、子どもたちもそのように喋っており、それ故に、作文を書くときにも、このような言葉をあたりまえのように使うことになる。
特に「たり」には私も閉口している。何度朱入れして厳しく指摘しても、悲しいくらい毎度毎度一度きり書いてくる。二度使えと説明したら、並列的なことでもないのに、「友だちと遊んだり、ごはんをおいしいと思ったりしました」のような、ひじょうに気持ちの悪い使い方をしてくる。つまりどうしても「たり」を使わないと、調子がつかめないようなのだ。それほどに、「たり」は軽く調子を整えるために用いるものとして浸透している。だからもう私は、「たり」は使わなくてよろしい、とだんだんきつい言い方をするようにすらなるのだった。
作文は、ずいぶん昔は、「綴方」などと言って、型を覚えるための訓練のようになされていたことがあったという。それが、太平洋戦争後のことだろうか、「自由に、思ったままに書きましょう」という指導に変わっていく。もちろんそれを端的に悪いとは言わない。だが、何でも思ったことを自由に書きましょう、と言われて、それを自由に書けるから楽しい、と思える子は、よほど書くことに慣れている子である。多くの場合は、何をどう書けばよいのか分からず、呆然とするのではないか。「自由に、思ったままに説教しましょう」と言われると、どれほど戸惑うか想像すると、その子の気持ちが少し分かるかもしれない。
話す言葉をそのまま文字にすればよいのです。もしかすると、このような指導を受けたことがあるのかもしれない。また、読書感想文はくだらない、というような一部の思い込みの激しい人の意見を気にしすぎて、子どもたちに作文をさせる機会が減っているのかもしれないし、小学校の教師のほうでも、一人ひとりの文章に細かく指導していく時間自体がなくなっているのかもしれない。
クリスマスのことを作文に書いた息子が、教会学校で聞いた通りに「エリサベツが……」と書いていたら、先生が朱で「エリザベス」と書き直したことがあった。ちょっと調べることもできないくらいに、先生は多忙なのである。私も威張れたことではないが、文章を、巧くなくてもよいから、適切に書くという教育が、どんどん蔑ろにされていくような気がしてならない。
誹謗中傷を繰り返すネットの言論が問題に挙がるが、それは人の心が分からないという一面があることのほかに、その言葉が何を表現しているのか、何を伝えることができるのか、といった言語的な理解や、作文の経験というものが欠落している側面があるのかもしれない、と最近よく思う。炎上という現象があるが、最初の発言自体が問題含みである場合のほかに、よってたかってそれに文句をつける多数のほうが、言葉を理解し損なっている、という場合があるような気がしてならないのである。
政治家の答弁を考えても(それは今に始まらないが)、言葉に真実がなくなっているという世の中では、言葉の教育もままならぬことは理解できる。だから、聖書から、ことばなる神を知るキリスト者と教会は、ますます言葉を軽んじてはならない、とも思う。日本語にならないような文章を、恥ずかしげもなく平気で発信している教会もあるのは、信仰や伝道以前の問題である、とも言える。だが何にしても、他山の石。私が一番頭を垂れる必要がありそうだ。