【メッセージ】聖書をどう読むか
2022年10月23日
(マタイ5:21-26, ダニエル2:22)
神は奥義と秘義を啓示し
闇にあるものを知り、光が御もとに宿ります。(ダニエル2:22)
◆示される
世代により、通じなくなる言葉があります。いまの子どもたちには「縁側」や「軒」すら、家屋の構造の違いにより伝わりませんし、「ほぞ」はもちろんのこと、「うなじ」も分かりません。私がよく言うように、子どもたちは「レンゲソウ」を殆ど誰も知らないのですから、授業をするというのは、まず言葉選びから常に想定していなければなりません。
キリスト教会で使われる言葉も、時とともに変わっていきます。『讃美歌』の歌詞はもう完全に外国語です。使徒信条も果たして意味が理解できているのかどうか、怪しいものです。それは若い人たちばかりでなく、かなりのベテランであっても同様なのです。
そうした言葉の中で、ふと思いついたのが、「示される」という言葉です。如何ですか。教会で使いますか。「示される」、これは受け身の形です。聖書の言葉では、受け身だけの表現があるとき、しばしばそれは「神による」という意味上の主語が省略されているものと理解されます。イエスは「よみがえらされた」と記されているのですが、それは「神がよみがえらせた」という意味を含んでいるわけです。神の名を無闇に口にしないための工夫であろうとも思われます。
「示される」のも、「神により示される」のであり、「神が示す」ということです。何を示すのか、使ったことがない方には見当がつかないかもしれません。これは今日、「罪が示される」という意味で捉えていきたいと思っています。
罪というものは、自分で気づきにくい側面があります。ですね? 自分でそれが罪だと気づかない。あるいは、自分ではそれを罪だとは思っていなかった。そこへ、聖書の言葉だか、ひとの言葉だか、何らかのニュースだかはいろいろあるとして、何か自分の外から、それはよくないことだ、と気づかされる出来事が起こるわけです。罪に気づく、罪を自覚する、という場面でよく使っていたような気がします。
もちろん、自分の進むべき道が示される、というような形で使うこともあります。神が何かを教えてくれる、ということでしょうか。しかし今日は、罪の自覚の方面で考えてみることにします。教会ではどうでしょうか。最近「罪」についての説教はあったでしょうか。下手をすると、「罪」という言葉そのものが全く現れない説教が続いているかもしれません。
たとえ「罪」という言葉が語られていたとしても、語る者自身に罪の自覚がないままに語っている、という場合があります。一応教義的な意味で「罪」という言葉に触れるけれども、ただ一般的な意味でお話ししているだけだと、「示される」ことはないでしょう。敏感な聴き手は、そこから自分の問題として捉えることができるかもしれませんが、依然として、罪の自覚のない語り手であれば、そちらは能天気なものに過ぎないのです。聞く他人が罪を「示される」ことでやがて恵みを受けることがあっても、語る側自身が「示される」ことのない場合は、語る者は実に不幸です。
◆和解
マタイによる福音書の、山上の説教と呼ばれる箇所を本日は開きます。ここには、イエスが随所で語った「教え」が一覧できるようになっています。場面場面で語ったことはその場面に収めるとして、その他の教えが集められている、という編集ではないか、と想像されます。
ここにあるイエスの教えの中には、この「示される」ということが目的であるかのようなものが多々あります。あるいは、もしかすると「示される」ことこそが、イエスは教えを尽くしていたのかもしれません。
確かに「殺す」というのが悪いということは、人間はおよそ誰もが、経験に先立って理解していると思われます。ですから多くの人は、「自分は誰も殺してなどいませんよ」と思っているでしょう。
ところがイエスは、その「殺す」という概念を、うんと拡大するのです。
22:しかし、私は言っておく。きょうだいに腹を立てる者は誰でも裁きを受ける。きょうだいに『馬鹿』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、ゲヘナの火に投げ込まれる。
ひとに腹を立てるだけで、またひとに「馬鹿」と言うだけで、最大の罰を受ける、という宣言です。これは恐ろしい。なお、ここで「きょうだい」とひらがなで書かれているのは、聖書協会共同訳のポリシーに基づいたものです。「兄弟」とすると男だけであるからその漢字を使わないことにした、ということのようです。基本的に男女関係なく「兄弟」という文字で指し示すことが、実はできるので、杞憂のような気もしますが、英語で「man」がいくら女性も含む、などと言っても受け容れられないのと同様に、漢字のイメージを払拭する目的で、そのようにしているのでしょう。果たして、これが日本語に影響を与えることができるでしょうか。
イエスが、腹を立てるとか、馬鹿と言うとかいうのは、ひとつの象徴めいた例であると思います。確かに私たちは、自分の言葉がひとを傷つけたとき、その人を「殺した」というような思いが押し寄せてくることがあります。少なくとも、キリスト者とは、そういう捉え方ができる人であるはずだ、と私は確信しています。「自分は誰も殺してなんかいませんよ」と平然と思い込んでいるような人は、きっと福音について何も知らないのだろう、と言ってよいだろうと思うのです。
では、どうすればよいのでしょう。
23:だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、きょうだいが自分に恨みを抱いていることをそこで思い出したなら、
24:その供え物を祭壇の前に置き、まず行って、きょうだいと仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。
25:あなたを訴える人と一緒に道を行くときには、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるに違いない。
心に示されたなら、すぐに行動に移しなさい。「仲直り」とありますが、直後に出てくる「和解」と同じことだと理解します。こちらのほうは、訴えられたなら、裁判に至る途上で「和解」をすべきだと言っています。そう、和解が必要なのです。
もちろん、キリストの十字架が、神と人との和解のためだ、というところを忘れないのが、キリストの弟子というものなのでした。
◆当事者
マタイの述べていることについて、もっと深い読み方はできるだろうと思います。霊的に、何かを象徴しようとしている、と読んでもよいのです。もしこじつけのように見えたとしても、それなりに味わいがあり、なによりも、読んだ当人が、そう読むことで生き生きとした歩みを始めることができるのであれば、他人がとやかく言うべきものではありません。むしろ、様々な「気づき」に、教えられていくとよいと思います。
そこで私は私なりに、ひとつの視点から、この箇所を受け止めてみることにします。私はそれを大切なことであり、どなたにも何かしら関わることができると思うので、どうかしばらくお付き合いください。
しかしそれは、いつもの私となんら違う読み方ではありません。つまり「当事者として、これを読めるかどうか」ということです。
「当事者」とは何か、まずそこから少し触れます。この言葉の始まりは、恐らく法律用語であろうかと思います。原告と被告のように、直接争議で向き合う者たちを指すのだろうと思います。
いつ頃からなのでしょうか、定かではありませんが、今世紀に入って後、障害者問題において、この「当事者」という言葉がよく使われるようになりました。それは、言うなれば、専門家や福祉行政など、世話をする側が介護について決め、主導するといいう一方的なスタイルに対して、そうではない、障害者こそむしろ主人公であるべきだ、という考え方に基づく概念です。障害者が当事者として、どう福祉に関わっていくのか、それを問うているわけです。
ですから、当事者という意識は、通例何かをされるだけだとしか見なされていなかった方が、いやこちらの立場や考えを理解してほしい、という気持ちの現れから用いられている言葉だ、ということになります。私はその使い方には、十分な尊敬を払う者です。そのための基本的な考え方もいくらか学びました。実際にそのために尽力している方々には、さしあたり祈りで支援するしかありませんが、事ある毎に、その動きを助けることができないかと声を発することもしているつもりです。
しかし、元の法律の用語からすると、当事者は原告と被告、また検察官と被告人のように、直接事件に関わる当人のことを指すのですから、これに対する立場の人として今、「他人」という言い方を用いることにします。「当事者であること」の反対が、「他人事」であるというふうに捉えてみるわけです。
◆聖書をどう読むか
そこで着眼しなければならない点は、私たちが聖書を「他人事」として読んでいないか、ということです。聖書は須く、読者に、聴き手に、「当事者」であるかどうかを問うものだ、と私は思うからです。
それはどこか遠い物語でしょうか。自分とは関係がない言葉なのでしょうか。そう、キリスト教の話、特にイエスの十字架の話をすると、しばしばこんな言葉を返されます。「それが私と何の関係があるのか」と。尤もです。そう思われて当たり前です。私もそうした時を長く長く過ごしてきましたから、気づかない、分からない、というのは、当然のことであると認めます。
中には、聖書には良いことが書いてあるね、と言う人はいます。何も、悪い教えが書かれてあるのではないのです。それをねじ曲げて悪用し、金を巻き上げる道具として利用することまで、人間は思いつくのですから、質が悪い者もいます。自分が有名な本について少しばかり知識があるんだぞ、と吹聴するために持ち出す者もいます。けれども概ね、聖書には良いことが書いてある、といった感想は、多くの人がもつことができると思うのです。時に生活の指針にもなりえる教えがあるし、人生訓として、なるほどと思えることもあるのです。
教会に集う人の中にも、そのように捉えている人がいてもよいと私は思います。しかし、それがゴールであるということに、賛成することはできません。聖書をどう読むか。ある人々の読み方に対して、それは間違いだ、と抵抗するような読み方は、その人の心の中にあることは構いませんが、それこそ正しい、というように宣伝してほしくないと願います。他の人に聖書から語りかける神の言葉を妨げるようなことを、わざわざするような真似はよくないと思うからです。
ですから私の読み方も、これが正しい、という言い方で押しつけるつもりはありません。ひとつ耳を傾けて戴ければ結構です。あとは聖書の中から、あなたに新たに語りかけてくる言葉が、あなたを導くことで十分です。いまここでは、聖書からの語りかけに対して「信仰」という姿勢で応えるかどうか、まずはそれが指標となります。そのためには、当事者にどこまでなることができるのか、という点が重要だ、と申し上げたいのです。
信仰の証しというものを聞くことがあります。ある教会では、洗礼を受けるときや、教会に転入会するときだけ、それを語る人の声を聞きます。ある教会では、教会にふだん来ていない人を招くための礼拝や集会で、教会員の誰かが、自分の信仰について話すということをします。生活の中でもひとに自分の信仰を話すような機会があるはずです。だからそれはひとつの訓練ですよ、という牧師の指導がありました。毎月一度、誰かが話すという場合、教会員それぞれの信仰がどのようなものであるのか、どのようなところから救われたのか、互いによく知ることができました。
自分が教会に来る前はどうだったか。聖書のどの言葉により自分が変えられたのか。どのように変わったのか。こうしたことは、本来原稿にしたり、考え込んだりして話すものではありません。誰もが一生の中で一番うれしい体験をした瞬間ですから、いつどのように尋ねられても、すらすらお話しできるはずです。そして、いつ何度話しても、基本的に同じ物語であるに決まっています。
ただ、人前で話すとなると、それなりに整理するとよいと思われます。従って、教会で証しを聞くと、非常に聞きやすく、神の業をひしひしと感じます。その証しの中では、聖書の言葉が登場するのは当然すぎることなのですが、聖書の世界と自身の世界とが、クロスオーバーしていることをしばしば話してくださるのを、うれしく思います。つまり、聖書の中に自分が描かれていること、自分の人生の中に聖書の言葉が生きて働いてきたこと、そうした話を聞くことができるのです。
そういう人は、目が開かれて、それまで見えていなかったものが見えるようになった、気づくようになった、というふうに話します。新たなものが、正に「示される」という体験が、そこにあるのです。
◆説教
礼拝説教については、山ほどお伝えしなければならないことがあります。そのうちのわずかな部分ですが、次週お話しさせて戴きたいと願っています。いまはただ、お粗末な「説教」のようなものを見分ける指標について、少し触れておこうかと思います。中には、説教がどうしても心に入ってこない、ということで悩んでおられる方がいます。特に、ひとつの教会にだけ出席し、ひとりの説教しか聞いたことがない方は、他と比較できないので、そうした悩みをもつ方がしばしばいるのですが、それはその方のせいではなく、説教のせいであるかもしれません。
まず、聖書のあらすじをたどる型。「聖書には〜とあります」と読み上げて、時折その言葉の解説をし、教訓めいた感想を交えて、進めていくパターンです。すると最後には、私たちもこのようにして生活に活かしていきましょう、と締め括ることがよくあります。長い作文を読み上げて、説教をしたぞと思い込んでいますが、これではただの聖書講演会です。その作文にしても、「頑張って検索して調べましたね」というくらいしか、返す言葉がありません。
また、これは自分に神との出会いの経験がない説教者の場合です。常に主語が「私たちは」である説教はありませんか。神と出会ったことがなく、神のことがよく分からない説教者は、人間の側の視点にしか立てません。話が自然、「私たちは」の主語で押し通されてしまいます。これは実に都合のよい言葉で、「私たちは罪があります」と言うと、聞く人の中で聖書とたいへん深い交わりをしている人は、「自分には罪がある」としみじみ感じるので、恰もよい説教を聞いたように騙されます。しかし、語る側は、その「私たち」に自分を含めて言っているつもりはありません。このような人は、決して「私は」という主語で信仰を語ることができないのです。そうなると、この「私たちは罪があります」という言葉の意味は、「自分は罪がよく分からないけれど、おまえたちには罪があるんだぞ」と言っていることになります。
この場合、語る者にとって、聖書の世界は他人事です。当事者になったことがないから、決して当事者の視線で語ることができません。当事者意識をもたない説教者は、現実にいます。そんなことがある、と考えたくない人もいるでしょうが、私は複数知っています。聞いていれば、そうであるかどうか、分かる耳はもっているつもりですが、やはり聖書をどう読むか、という点で、その違いがあるのだろう、と思います。
◆啓示
今日は「示される」という言葉を軸に、聖書をどう読むか、ご一緒に見つめてきました。最後に今までと少しだけ違った角度から、この「示される」ということについて、聖書からの呼びかけを聞いてみましょう。
「示される」というのは、受け身の表現です。それを能動的に「示す」主体があります。それは神である、ということを私たちは確認しました。「神が私に示す」という図式をここに基本として掲げることにします。しかもそれは、私が本来自分では見ることのできなかったもの、知ることのできなかったことを、神が私に示した、という意味であると理解しました。
このように隠れていたものを神が分かるよう示すという事態を表す、短い言葉を聖書は時折使います。それは「啓示」という言葉です。「啓」という漢字は「ひらく」意味をもちます。「啓蒙」という言葉は、実はやや失礼なものの言い方をしているのですが、無知な状態をひらいていく、ということを表しています。
「啓示」は「ひらきしめす」ことを表す熟語ですが、新約聖書のギリシア語では「アポカリュプシス」という語です。不思議なことですが、これは「黙示」と訳す場合があります。そう、「ヨハネの黙示録」とは、この「啓示」したもの、という意味にほかならないわけなのです。
ではその「啓示」の元の語は、どのような意味合いをもつ言葉なのか、というと、およそこういうふうなことです。「覆われて隠されていたものの覆いを取って、露わにすること」。どのように隠されていたか、については限定しません。何か邪悪なものがわざと隠していたのかもしれないし、ただ自分の不注意や勘違いで、見えていなかったということだけなのかもしれません。
面白いことに、これと同じような発想からできた言葉があります。これも聖書の中で大切に扱われる言葉です。それは「アレーテイア」、即ち「真理」と訳されているギリシア語です。これは哲学者ハイデッガーが自らの哲学の核に置いた語としても有名です。ハイデッガーは、ギリシア語をその語の語源や成り立ちから、独特な解釈をしました。それによると、「アレーテイア」は、「隠れていたものが隠れなくなること」であるそうです。ギリシア語で初めに「ア」が付く語は、しばしば「no」のような意味ですので、「隠れる」の否定となっていることになります。
イエスは言われた。「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、誰も父のもとに行くことができない。(ヨハネ14:6)
イエスはご自身のことを「真理」だと宣言していました。いままでは隠されていたけれど、いまや隠れなくなったのだ、という読み方をすると、どうですか、ちょっといい感じがしませんか。あるいは、普通は隠されているけれど、見る目をもつ人には隠れなく見えるのだ、と読んでもよいかもしれません。イエスの救いを味わうことができるかどうかには、少しばかり人による差異がある、というわけです。
いずれにしても、それは自分の力で見出すというものでもないし、自分が頑張れば分かるというものでもありません。いくら自分の中からアイディアを絞りだそうとしても、神の光は現れません。それはただ、私の外からもたらされる光であるのです。
◆聖書をこう読もう
では、何と言っているでしょうか。/「言葉はあなたのすぐ近くにあり/あなたの口に、あなたの心にある。」これは、私たちが宣べ伝えている信仰の言葉です。(ローマ10:8)
これは、申命記30:14をパウロがうまい具合に変えたものですが、神の言葉はすぐ近くにある、と言っています。この「近く」という言葉は、当然「遠く」と対比されます。
近ごろ読んだ本のひとつに『他者と生きる』(磯野真穂・集英社新書)というものがあります。その中で、「遠い経験」と「近い経験」とを対比させて説明しているところがありました。興味をお持ちになったどうぞその本をご覧戴きたいのですが、おおまかに言うと、「遠い経験」のほうは、理論として用いられる概念のことで、専門家の用語といったものです。「近い経験」というのは、人が言葉で自然に用いるもので、互いに容易に理解できるもののことだそうです。だから著者は、「大抵の人にとってはおそらく「宗教」も<遠い=経験>である」(p40)と言っています。
つまり、宗教や教義がどんどん理論化してしまうと、私から遠くなってしまいます。信仰者が互いに通じる言葉で、共に体験した神や聖書のことを話すならば、それはぐっと近いものである、ということになります。
とはいえ、学者が熱心に聖書を研究し、その成果をもたらしてくれるのは、たいへんありがたいことです。このようなギリシア語の成り立ち自体、邦訳聖書しか知らないと、全く気がつきません。その仕事が祝福されることを祈ります。ただ、それだけが聖書をどう読むかということのすべてではないのです。学術的な研究は、ひとつの仕事ではありますが、神をそれで捉えられるはずがありません。しかも、その仕事だけで満足していては、神の力も聖書の知恵も、自分のものにはなりません。私のために私の外から光が射して、私の中を明るく照らすという体験とは、また別の話でしかないのです。
聖書の言葉、特にまたイエスの言葉から何かを戴こうと向き合ってみると、イエスの口癖であるかのように、幾度も聞かれる形式に気がつきます。「聞いているとおり……。しかし……。だから……」というのが、いくつかありませんでしたか。「聞いている」ということは、いますでに私たちが知っていることです。しかし、イエスはそれ以外のものを教えます。私の外から光を投げかけます。その結果、新たな知恵に巡り会えるようになるのです。これは、私にいつもぐいと迫ります。
いま私が確信していることについても、いつでもすぐに、そんな思いつきは違うぞ、あのね……と否定する言葉がイエスから届いて、次の高みへと連れて行かれることになるかもしれません。すると私の見える世界が拡がっていきます。それまで見えていなかった景色が見えるようになるからです。そして面白いことに、広く見えるということは、逆に考えが深まることである、と私は知っています。これまで、何度そんなことがあったことでしょう。
聖書をどう読むか。聖書からいま、神の私への思いが、示されることを求めたいと思います。このとき私はすでに、聖書と神の世界における、当事者になっています。私は立ち上がり、何かを語るか、何かをするか始めるでしょう。神の言葉は、私を通して、新たな出来事をもたらすのです。聖書は、そのように読まれることを待っているのだ、と私は信じています。いえ、間違いなく神が、そう願っているのです。