恵まれる礼拝説教がある
2022年10月23日
「この説教を、ぜひほかの人に聞かせたい」などと言うと、少し高慢に聞こえるだろうか。「あの人に、聞いてほしい」と素直に思うような説教がある。「この」というのが、ある日の特定の説教である場合もあるが、同じひとの次の説教を信頼している場合には、「この人の説教を聞いて戴きたい」という言い方にもなる。どういうシチュエーションであってもいい。
教会の礼拝に参加している方は、そうした礼拝生活を送っているだろうか。中には、説教は眠いだけだとか、お義理で聞くけど忍耐しているだけだとか、そんな人もいるのだろうか。聖書について尤もらしい話がなされていたら、礼拝に出たことになる、という程度の人も、いるかもしれない。
こういう喩えは失礼になるかもしれないが、仏教の「お経」や、神道の「祝詞」というものに、日本人は慣れている。何を言っているのか、について関心がある人は、よほどの通であるか、その道のプロであるかでしかない。音楽的なものが流れていれば、「ありがたい」というものではないだろうか。ただ受け流すだけの音声でよいのである。
この文化的・習俗的背景があるからこそ、キリスト教の「説教」にも、同様の感覚が伴っているような気がしてならない。説教の内容というものは、「お経」や「祝詞」に比べれば、まだ理解を伴うような形で受け止められることだろう。しかし、意識の方面では、ただ受け流しているばかりである、そんな反省をしてみる必要があろうかと思うのである。
というのは、言葉や論理がおかしすぎるもの、知識として間違っているもの、そしてちょっと検索してお勉強をまとめた作文の朗読に対して、誰も文句を言わないでいるというようなことが、私には信じられないからである。説教要旨が文章になっているが、誤字やおかしな日本語が並べられ、聖書の子ども向けの解説書のような内容だけで、筋の通らない話や題に首を捻らざるをえず、それのどこに福音があるのか見当たらない、毎回水戸黄門のような結論の出し方ばかりが目に付く作文が、毎回掲載されている。、誰も注意を払わず、毎回毎回そのような状態が続いているというのも、信じられないのである。
それは、説教を神の言葉だと考えていない、ということを表していることになる。つまり、神の言葉に関心がないという教会やキリスト者というのは、自己矛盾だからである。それとも、それはもはや教会でもなければ、キリスト者でもない、ということなのだろうか。私には判断できない。
そういう貧相なもので満足だ、というのであったら、すでにその人の霊は病んでいる。その人が、聖書など信じていない、と言うのであれば、それはそれで筋が通っている。しかし、自分は信じている、と堂々と言うのだったら、私は頭がおかしそうになる。全く理解できない。
人に勧めたい説教を受けることができる私は、恵まれている。それまで気づかなかった新たな聖書の言葉の意味を教えられ、それまで見えなかった新たな景色を見せてもらえる。そうか、そうなんだ、という驚きがあると、自分を超えた神からの霊とその臨在感を覚える。神はそのようなお方なのだ、と気づかされ、神の視点の素晴らしさに感激する。自分の小ささを思い知らされ、時に罪が指摘され、だが、それ故にこそ、イエス・キリストの救いを噛みしめることとなる。
説教により、心を刺されて新たな光が射すという証しがあるが、それはたぶん、99%の退屈な説教があるために、1%の出合いを体験した、ということではないか、とふだん勘ぐっていた。けれども、そうとばかりは言えないと分かった。神と出会い、神からの言葉を取り次ぎのために祈り努めている説教者からは、毎たび、光が射してくるのである。
教会につながる皆さまは、どんな説教を受けて(あるいは、語って)いるだろうか。それを、どんなふうに受け止めているだろうか。一人ひとりの霊が、神の言葉に生かされ続けていることを願っている。