死は罪の赦しで復活の勝利に至る

2022年10月17日

日曜日の朝、家にいれば、Eテレの「日曜美術館」をよく見ている。今回は、福岡県出身の写真家である藤原新也氏が取り上げられていた。番組でのっけから死体の写真が映し出された。『メメントモリ』という作品集もあり、死を強烈に訴える写真家の姿に、目を見張っていたところだった。
 
秋のこの頃には、日本各地の教会で、亡くなった信徒を記念する機会を設けることが多い。彼岸だからかどうか知らないが、墓前礼拝などと称して、教会の墓地に集まることもある。昨今はその集まりができにくくなるが、せめて会堂では、そのための礼拝を執り行うということは続けられており、故人を偲ぶ時間を過ごす。ふだんその教会に来ているのではない遺族を招くこともある。
 
礼拝説教で取り上げられたのは、テサロニケ一4章。眠りに就いた人たちについての、テサロニケの信徒たちの不安を一掃すべく、パウロが復活の希望を投げかけるという件である。「合図の号令と、大天使の声と、神のラッパが鳴り響く」という言葉は、終末の出来事として、よく取り出され、論じられもする。
 
だが、説教者は断ずる。パウロのこの幻の予想は外れた、と。「主が来られる時まで生き残る私たち」と明言したにも拘わらず、パウロ自身もまた、やがて地上生涯を閉じることになる。「生き残っている私たちが」どうなるか、という筋書きも、結局そうはならなかった言葉となった。
 
だが、それはいまだに伝えられている。あれは外れた予言に過ぎず、空しい言葉ではないか、と指摘する人がいてもいいはずだが、いまなおこの手紙を聖書として認める人々は、パウロのこの幻に、何らかの真実を受け止めていることになる。それは、新約聖書を編集する当時の人々にとってもまた、これを真実と理解したが故でもある。
 
説教者も、「これが真実であるように思えて仕方がない」と言った。私は思う。これが聖書の一部として取り込まれたときにすでに、それは真実と認められたはずなのだ、と。その聖書を神の言葉として受け容れるはずのキリスト者が、これを真実と捉えないはずが、原理的にないのである。
 
キリスト者は、死について、とくに愛する人の死に際して、嘆いたり悲しんだりしてはならない。そのように、教義を文字通りに理解し敷衍する人がいるかもしれない。インターネット内の声の中には、文字通りにしか理解せず、他人を罵倒しているような悲しい「クリスチャン」が少なからず見られる。だが、説教者は告げる。泣いてよい。泣いて悲しみなさい。但し――それは希望をもたない人と同じ姿ではないはずだ。
 
初穂としてのイエス・キリストの復活を、キリスト者は知っている。知っているというのは、信じているということであるし、何らかの意味で体験している、という意味である。それはイエスと向き合い、イエスの体験を、たとえ擬似的に過ぎないにしても、我が事として感じる心をもっている、ということでもあるだろう。
 
このイエスは、十字架上で殺された。説教上はそういう話の流れで進んだ。それはそれでよい。だが私はそれを聞いた瞬間、それを主語のない受動態のようには受け止めなかった。誰が殺したのだ。いったい誰が。……もちろん、それは言うまでもない。しかしその罪の赦しを実現したのが、正にこのイエスなのだった。
 
イエスの死という出来事は、神の愛と義の出来事である。それは私にとり無関係な誰かの死ではない。神の側での視野からすれば、すべての人間にとり関係がある死である。けれども、イエスの死と自分とが何の関係があるのか分からない、という人が現実に多いのも事実である。自分と関係がある死なのだ、ということは、聖霊によらなければ言えないものなのかもしれない。が、それは人間の側の事情に拠るものだ、という見解も可能であろう。神ですら、強引にいうことを聞かせようとはしないのだ。
 
この説教、「わたしが死んで墓に下ることに/何の益があるでしょう」(詩編30:10,新共同訳)という詩編の言葉を含む数節もまた、同時に説教のために導かれていた。
 
「福音と世界」の11月号に、ヘイトに関する特集があった。差別と闘い声を発信したり行動したりしている、差別される側の当事者の声があった。ヘイトに悩まされ、自分が死んだら相手に殺されなくて済むのか、という思いが大きくなっていったという。だが、ふと気づく。「生き残ることが相手の成功体験を妨げるのだ」と。自分が死んで、差別を発信することをやめるならばねそれは「彼ら」の「成功」となってしまう、とも述べていた。
 
かの詩編の言葉が、決して抽象的ではないことを思い知らされる。聖書の言葉は、つねにどこかで、現実なのだ。それがまた、真実だということでもある。「差別される」と先に挙げたが、「彼ら」が「差別する」という事態のことを言っている。その「彼ら」というのは、誰であろう。人を死に追い詰めている加害者は、誰であろう。「私は違うよ」と瞬間的に答える者こそがまず問題であることは、差別を考究する場では常識だ、と見てよいことを思い起こす。
 
イエスは、差別されている人と共にいた。差別する者たちと闘った。その結果、彼らがイエスを殺した。人間ならば、これで終わりだったかも知れない。しかし、人間であっても、そのスピリットを受け継ぐ者が、その後にまた闘うものである。イエスは、その死の次に復活を受けた。それは、もはや闘いを続けるという性質のものではなかった。復活はそれ自身、すでに勝利であった。
 
説教は、死が、神の愛から人を離すようなことにはならない、という慰めを告げた。だから、キリスト者は、死を生き抜くことができるのだ、と力強く語るのであった。先の詩編は、その詩をこう結ぶ。
 
わたしの魂があなたをほめ歌い/沈黙することのないようにしてくださいました。わたしの神、主よ/とこしえにあなたに感謝をささげます。(詩編30:13,新共同訳)
 
主が共にいる以上、それは勝利である。キリスト者は、死というひとつの特異点に吸い込まれても、キリストが共にいる以上、それはつねにすでに勝利なのである。



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