【メッセージ】悪霊に取りつかれていた人
2022年10月16日
(マルコ5:1-20, 詩編69:17-19)
彼らに言いなさい。私は生きている――主なる神の仰せ。
私は悪しき者の死を決して喜ばない。むしろ、
悪しき者がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。
立ち帰れ、悪の道から立ち帰れ。イスラエルの家よ、
あなたがたがどうして死んでよいだろうか。(エゼキエル33:11)
◆悪霊は悪霊
福音書には、イエスが病を癒やしたという記事がたくさん出てきます。すると、この症状は現在の医学的知識からすると、何々病ではないか、という声が、どこからか現れます。私たちの知る、何かの病気に結びつけると、安心するのでしょうか。私はそこに、抵抗を感じます。特に、かつて病が罪の故だとされていたことを思うと、現代の病名を推測だけで挙げることにより、その病気を負った方々に、失礼なことになるだろうと思うのです。また、差別の元凶にもなりかねないと案じます。
私たちが現在、何らかの病名でその病気を呼ぶように、聖書の記事にある当時の人々は、その病気を悪霊のせいだ、と呼んだ。それでよいのではないでしょうか。現代の医学的理解が完成しているわけでもないし、常時それは修正されていくものです。聖書時代の悪霊は、悪霊と呼んでおけばよいと思うのです。
同様に「奇蹟」というものも、妙に今の科学的知識から説明をしようとする声が時々聞こえてきますが、私は好きではありません。現代のいんちきな「奇蹟トリック」でも、科学教育を受けた学生の一部が簡単に取り込まれます。イエスや預言者たちの奇蹟が、人心を取り込むために行われたとするのならともかく、大きな神のストーリーの中の出来事であるとすれば、そのまま「奇蹟」と呼んでおけばよいはずです。
今日のゲラサ人の地方での出来事も、何らかの奇蹟でありましょうし、それ以上に、それが悪霊の仕業であること、しかもイエスとその悪霊とが対話をしていることなど、当時の人の目でまずは見ていくことが望ましいように思います。今で言えばこれこれの……などという心を起こしたとたん、この記事が、ただの興味本位の読み物になってしまいます。へたをするとオカルト記事で終わります。矢印の尻尾のある悪魔を戯画的に描き始めたら、残念際なりないものです。教会で読む聖書は、そのような読み方をするものではない、と理解したいと思います。私たちは、聖書の人々と、できるだけ同じ体験をしたいのです。また、それはかなりの程度できるのだと思うのです。
◆この男は私
この男、厄介です。墓場を住処として、鎖でつないでいても、引きちぎるので周囲の人々は手を焼いていたのだといいます。墓場や山で叫び続け、石で自分の体を傷つけていたそうですから、困った人です。ただ他人を傷つけることはしていないようです。今の時代でよくあるのは、平生良識ある人のように生活していながら、溜めに溜めていた思いが爆発するように、不特定の誰かを傷つけるような事件です。それよりは、害がないと言えるのかもしれません。
こうした「困った人」は、昔からいたような気がします。このような暴力性をもつのではなくても、落語によくある「与太話」にまつわるような「与太郎」と呼ばれるキャラクターは、やはりそうした人が実在したことを思わせます。もしかすると知的に障害のある人が「困った人」と見られていたことがあるかもしれませんが、人々の中にそれなりに溶けこみ、交流をしているような話があると、少しほっとします。
障害のある人を、外に出さない、ということも昔はあったと思われます。座敷牢というものもありました。幽閉されているとなると、今なら監禁だとか人権がどうだとか言われて、激しい非難を浴びることでしょう。しかし1900年の精神病者監護法では、自宅に幽閉することは、警察に届けるなどをすることで認められていたそうです。
ヨーロッパでは、18世紀までは、刑罰というのは見せしめを基本とする考えがありました。イエス・キリストの十字架も正にそうです。しかしその後、犯罪者は監獄に入れて、そこで矯正しようとする考え方に変わっていきます。社会復帰という名目は、人権的に優れていると思われたのでしょう。しかしそれは、かつての肉体的刑罰が、精神的な刑罰に変化したと見ることができるかもしれません。悪者は痛めつけるということから、精神的に人間を支配しようとしたことにもなりえます。しかも、それは、権力をもつようになった「国家」がそのようにするのです。
この男は「困った人」でした。人々も、危害を受けないように気を配っただろうと思います。しかし、皆さまの中には、この男を外から眺めることができなかった人もいるのではないでしょうか。胸を痛めた人、申し訳ありません。なんだか自分の姿を見るようだ、と思った人もいるはずです。実は私が、そうだからです。私は、自分がこの男であるような気がして仕方がないのです。詳しくは申しませんが、そういう意識が根柢にあると考えています。
けれども、そういう意識が全くない人が、いるのでしょうか。私は多くの人に、この意識をもって戴きたい、と願っています。自分は詐欺にかからないと思い込む人こそ危険です。悪霊などないと嘲笑う人こそ、要注意。謎解き気分で、説明がつかないことを何でも悪霊のせいにしたのだ、などと得意げな人がいるかもしれませんが、本当にそれでよいのでしょうか。国家や政治を批判しているつもりで、実はその掌で操られているだけ、という例を、私は時折口にします。自分は大丈夫、健全だ、そう信じ込んでいることの危うさというものが、自分はダメだという場所から見ると、よく分かるような気がするのです。
◆犠牲
謎解きといえば、この逸話については、この後謎めいたことが起こります。この男は、イエスのもとに走ってきてひれ伏した上、自分に構わないでくれ、苦しめないでくれ、と懇願します。イエスは、それが男の声というよりも、その男の中に潜む悪霊の言葉だと見抜きます。「汚れた霊、この人から出て行け」(8)という言葉をぶつけた故だとマルコは記します。
イエスは、悪霊に対して名を尋ねます。名は体を表すというのみならず、名はその人物の本質を表すという考えがここに隠れています。それは「大工と鬼六」という昔話に見られるように、日本でもそうです。もちろん聖書でも、神の名に力があるという言い方は、そうした考えを知らせてくれます。すると男は、「名はレギオン。我々は大勢だから」(9)と答えました。
悪霊は、イエスに勝てないと分かっているのでしょう。この地方から追い出さないでくれと、これまた懇願します。この男から出て行くことは、イエスが命じたのだから従わねばならないのでしょう。そこで、「豚の中に送り込み、乗り移らせてくれ」(12)と言い、イエスはそれを許します。悪霊たちは豚の中に入り、その二千頭ほどの豚が、崖から湖になだれ込み、そこで溺れ死んだということです。
謎のポイントは、ひとつはレギオン。それから、何と言っても豚でしょう。「レギオン」というのは、ローマの陸軍の軍隊のことをいいます。一つの軍団は数千人から成ったともいいます。これを意味するならば、イエスはローマ軍よりも上に立つということを、読者に教えてくれるでしょう。もしここにあるように「大勢」を意味する表現としてのみ使われていたとしたら、世にはびこる大量の悪霊にもイエスは勝利していることを示すとして、信徒の励みになったとも言えるでしょう。しかし、こうした謎解きは、しょせん謎解きです。あまり拘泥しないでよいのではないかと思います。
むしろ、豚の記述が長いので、悪霊が豚の集団に乗り移ったというところに、もう少し気を留めてみたいと思います。
いわば、豚は男の身代わりに溺れ死んだのです。犠牲となったのです。
こうした犠牲物語は、世界のどこにもあると思われます。人柱という考え方も、世界的に見られ、日本だと江戸時代まではあったらしいと言われています。素戔嗚尊(すさのおのみこと)が八岐大蛇(やまたのおろち)から救った奇稲田姫(くしなだひめ)の物語も、国を守るための犠牲のような考えに基づいているのではないでしょうか。ただ、戦没者が犠牲になって私たちが生かされているのだ、と国が説明するときには、注意が必要です。つい、そうだと思ってしまいますが、犠牲とさせた当事者の国が、自然と犠牲になった、というような言い方をするところに、問題があります。加害者が、被害者を可哀想に考えましょう、などという論理は、認めがたいであろうからです。
ところで、イエス・キリストは私たちの身代わりに死んだ。キリスト教会で説かれる救いの、重要な点がこのように言われることがあります。聖書の中に「身代わり」と訳出されるものは、基本的にありません。ただ、旧約聖書の民数記には、レビ人が、人間の犠牲の「身代わり」なのだ、というような叙述があります(民数記3:12,8:16,8:18)。
聖書を自由に解する人の中には、イエス・キリストが身代わりに死んだというような考えはおかしい、と言う人もいます。私は、おかしいとは思いませんが、それよりも、ただの身代わりではない、というところにまで思いを馳せることがあります。それは、信仰者が、概ね気づいていることなのではないか、とも思います。ただ、それもいまここで追究する問題ではない、としておきます。ここでは、誰かを救うために犠牲になる者が存在する、そういう場合があるのだ、という点を確認したことにしておきます。
◆死と不幸の故に生きている
このように、各種伝説や言い伝えを眺めていけば、誰かが犠牲になることで他の人々が生きる、という物語には、たくさん出会えるだろうと思います。けれども、それを特別な物語であるとか、特殊なケースであるとか、そんなふうに思うかどうか、問いかけてみたいと思います。私は、それがきわめて日常的なことである、という気持ちで日々生きているからです。
もちろんすでにお気づきの方が多いことだろうと思います。現実に私も、あなたも、毎日誰かの犠牲の上に生きているのです。だのに、忘れがちになっている。私が今日を生きるために、どれだけの動物が犠牲になったことでしょうか。どれほどの命を「いただいている」ことでしょうか。
ベジタリアンの方は、肉食を避けているかもしれません。だとしても、植物などの命を「いただいて」いると思います。無精卵や果実の部分だけ、というような食生活の方がいらしたら、命を奪っているのではないかもしれませんが、さて、いらっしゃるのかどうか。
食べ物は、命というものについての直接的な犠牲でした。しかし分かりにくい犠牲というものにも、私たちは想像の翼をはためかせる必要がある、と私は思います。この世界のどこかで、あるいはあちこちで、誰かが不条理な不幸を浴びていることは確かでしょう。どうして私ではなくて、その人たちが死ぬのでしょう。虐げられるのでしょう。災害に遭って生き残った立場の方の口から、しばしばこぼれる言葉です。どうして自分ではなくて、あの人が犠牲になったのか、と。そう、ここに確かに、犠牲者がいて、自分が生きているという見方を、私たちがしていることに気づきます。そもそも「犠牲者」という言い方そのものが、暗にそのような見方に支えられているような気もするのですが、如何でしょう。
他の地域で、内戦や戦争が起こる報道が流れます。遠い国、縁のない国の出来事に過ぎないのは事実かもしれません。けれども、本当に私とは関係がないのでしょうか。たんに経済的影響がある、などという話ではありません。いま私は、偶々平和な社会に生きています。偶々そう簡単に殺されないような場所と時代の中に生まれたのです。自由を叫び連行される人々、あるいはただただ戦火を逃げ惑う人々の、「なぜ?」との叫びや苦しみや渇き、望みを失った悲しみと、亡くした家族への思いと、敵への怒りなど、あらゆるものが、ここにいま私が生きているということと、本当に無関係であるとしか思えないのかどうか、よく問い直してみる必要がある、と私は感じています。
確信犯であれ、愉快犯であれ、偶々襲ったという場合であれ、どうしてその人が犠牲者となったのか、報道を聞く度に、そのような事件が起こるに至った原因の一端を、自分がつくっている。私は、そんな意識で、事件報道を聞いてしまいます。誰かの不幸や、時にその死によって、私はここに生きているのだ、という意識を、常々もっているということです。
◆豚は豚
さて、この男の場面では、犠牲になったのは、豚でした。レギオンという軍団の名をもつ悪霊は、やはり多数あったということなのでしょうか、乗り移られた豚も大軍であり、二千頭もいたと書かれてあります。
そもそもガリラヤ地方そのものが、中央のエルサレムから距離的にも離れており、「異邦人のガリラヤ」(マタイ4:15,イザヤ8:23)と呼ばれていました。産物は豊かで経済的にはそれなりに力があったと思われますが、その土地はユダヤ信仰からすれば、問題ありとされていました。元々カナン人がいて、一部にずっといたと考えられています。捕囚された歴史もあり、バビロニア帝国やペルシアその他、周辺諸国の支配を受けてきました。また、その都度諸国からの入植者があり、混血が進んで行ったと考えられています。よくサマリアがそうだと説明がありますが、ガリラヤ地方もそのような具合であったと思われます。
ゲラサ地方というのは、多分ギリシア人の多い地域だったと思われます。ガリラヤ湖から南へ流れるヨルダン川の地域に、デカポリス(10の町)と呼ばれる、ギリシアの大きな植民地がありました。ゲラサもその一つです。ギリシア人は、豚も食しています。問題はユダヤ人であって、旧約聖書の規定から、豚は汚れたものの定義に入るため、食べてはならない、とされていたことです。豚肉を食べろと強要されて拒んだ七人の兄弟とその母親の酷い死の場面が、旧約聖書続編のマカバイ二7章に生々しく描かれています。
豚は汚れた存在だったのです。たとえば、ソロモン王が神殿が完成し、契約の箱を納めるとき、羊や牛について、「その数はあまりに多く、調べることも数えることもできないほど」(列王記上8:5)いけにえとして献げていますが、そこには豚は含まれませんでした。数え切れないほどの動物の犠牲は、想像するだけでおぞましい気持ちもしてきますが、近年この動物の犠牲というテーマは、哲学のある方面で非常に重要な考察課題となっています。実験動物も、苦しめないようにとの規定が世界に広まっていますし、よく耳にする「動物愛護法」なるものも、ただの感情の問題ではなくて、たいへん奥の深い考えを背景にしているのです。
ユダヤでは、豚は決して食べられもしませんし、触れようともしなかったはずです。だから、ここで飼われていた豚は、ユダヤ人のためのものではありません。異邦人のためのものです。たとえイエスやその弟子たちが異邦人へ福音を知らせて救いをもたらす道を拓いたとしても、それは伝統的に、汚れた動物でした。聖い動物ではありませんでした。だから、このレギオンと呼ばれた悪霊たち(汚れた霊ども)も、汚れた動物に乗り移るという道しかなかったのかもしれません。
尤も、いま私たちは豚に対してそのような感情を懐くこともありません。豚肉も食べるでしょう。食べられる豚の気持ちを思いやっても意味がないかもしれませんが、聖書でこのように汚れたなどと呼ばれる豚は、少し気の毒です。このことは、エジプトについてもよく思います。いまもエジプトという国があり、エジプト人と呼ばれる人々がいます。聖書からすれば、イスラエル民族の憎き敵であり、堕落の象徴のように説教の時に語るのがエジプトです。いくらいまのエジプトとは違うなどと説明しても、言葉で「エジプト」と呼ぶのですから、エジプトが気の毒でなりません。「バビロン」だったら、いまはなき国だということで、まだ心理的負担は軽いのですが、エジプトは、なんとかならないかとよく思います。
◆きよさ
豚は聖くなかった。正にこの男の姿も、聖くありませんでした。この点が重く貫いていたために、きっと私は、この物語に触れる度に、痛みを覚えていたのだと思います。そのような聖くない人間の姿は、昔の自分とぴったり重なり合うからです。これは私の姿だ、このようにどうしようもない人間だったのだ、と思い知らされる気がして成らなかったのです。
しかしこの男は、イエスに出会います。悪霊は去り、いま聖くされました。その男をいいように操っていた悪霊は、確かな形で、汚れを象徴するであろう豚の中に入り、目に見える形をとりました。それから、湖の藻屑と消えて行きました。こうして、男は聖くなりました。
「汚れた霊、この人から出て行け」(8)と、イエスが言った、ただそれだけのことでした。イエス・キリストの言葉が、この男を聖めました。
私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、あらゆる不正から清めてくださいます。(ヨハネ一1:9)
罪の告白が、どうして罪の赦しとなるのか。イエス・キリストが犠牲となったからです。そのために、誰かが生きる者となったのです。それは誰か。イエスの十字架と復活の後に、イエスと会った者です。イエスを主と仰ぎ、従った者です。そのしんがりにでも、私はついていくようでありたいと願い、今日も主の救いの業を見上げます。
イエス・キリストは、汚れの最高度のもの、死刑台で頭を垂れました。汚れそのものであるような血を流し、罪人のうちに数えられて、殺されました。最も聖いはずの方が、最も汚れた仕打ちを受けました。そこまで降りて来られました。自ら、その汚れを引き受けました。つまり、墜ちるところまで墜ちたのです。これ以上ないというような犠牲をその身に受け、そこまでのことをしてくれたお陰で、私のような者も、生きるようにされたのです。悪霊に取り憑かれていた者だからこそ、それがイエスにより自分から出て行ったということを、確かなこととして、証言しています。
◆祈りましょう
さあ、祈りましょう。詩編69編からです。
17:主よ、恵みと慈しみのゆえに答えてください。/深い憐れみにふさわしく御顔を向けてください。
18:僕に御顔を隠さないでください。/私は苦難の中にあります。/急いで答えてください。
19:私の魂に近づき、贖い/敵から解き放ってください。
いままさに、苦しい目に遭っている人、困難の中に置かれている人は、自分のために。でももしいま自分はそこまで切実な苦しい立場ではない、という人は、苦しんでいる誰かのために。
かつて悪霊に取り憑かれていた自分を、思い起こしましょう。イエスと出会い、いま聖くされていることを、改めて噛みしめましょう。それでもなお、自分はくだらない奴でしかないでしょう。間違ったことばかりしているのでしょう。聖く正しくなどということとは縁遠い、しょうもない者なのでしょう。自分の姿が現実にどんなふうであったとしても、イエスは確かに言いました。「汚れた霊、この人から出て行け」(8)と。それを信じることです。イエスが確かに、自分に向けて、自分のために告げたのだということを、信じることです。
私はどんなにか、呪われるような存在だったことでしょう。けれども、イエス・キリストがその呪いを全部引き受けてくださいました。それを信じて、祈りましょう。「自分の家族のもとに帰って、主があなたにしてくださったこと、また、あなたを憐れんでくださったことを、ことごとく知らせなさい」(19)というイエスの言葉は、私のためのものでした。家族に話します。主が自分に何をしてくださったか。どんなに憐れんでくださったか。なにもかも、知らせるのです。「知らせなさい」は、英語訳を参考にすると、「レポートせよ」「アナウンスせよ」という感じです。神が自分に何をしてくださったか、誰かにレポートするように、聖書を今日、明らかに告げているのです。
男は、確かにそのようにしたのだ、ということが、この場面の結末に描かれています。
だから、祈りましょう。先ほどの詩編を、いまの私の言葉に直して受け止めてみます。
主よ、いま言葉をください。私の心の中心に来て、そこに留まってください。
私は苦しいのです。その苦しみをあなたの十字架に委ねます。
そうすれば、いかなる敵も、悪魔のごとき者も、もう私を責めることができなくなります。
あなたは私を、そしてまた、いま苦しい立場にあるあの人を、あの人たちを、
そこに絶望するようなことがないように、自由にしてくださることと信じます。
祈ったら、顔を上げましょう。確かな神の言葉の返答を、あるいはイエス・キリストの愛の業を、確かに受けたなら、立ち上がりましょう。そして、このよい知らせを、大切な人に届けましょう。その辛い人に、寂しい思いで潰されそうになっている、その人に。
祈りましょう。