歴史と現実の背後に神が在す
2022年10月5日
もし、逆らえない権力者がいたとする。その要請に応じて兵として召集され、戦争で命が消費されていくのだとしたら、現代人は堪えられないかもしれない。教育がかなり行き渡っていることが、その背景にあることは間違いないだろう。為政者は、時に教育を厭うものだった。思考する人間が多くなると、容易には操れなくなるからだ。知恵がまわる者が、簡単に多くの人間を操ることができた時代、ひとは権力者の道具でありただの機械のように扱われていたことがあっただろう。尤も、これは浅はかな知恵しかもたない私の想像であるから、歴史の事実は全く違う可能性も多々あることを、お断りしておく。
人の命など、簡単に扱えた時代は、確かにあっただろう。ただ、それなりに近代となると、たとえば戦国時代であれば、農民を活用したのは利益を餌にした、といった背景があったかもしれない。今風の「教育」を受けることがなくても、ひとは生きる知恵を養うものであった。有利なほうに味方をしたほうが、生き延びる可能性が高いのだ。ただ捨て駒としての戦闘を強要するようなことができるためには、相手の人間の頭脳を一度空にでもしないとできなかったことだろう。
フランス革命のような近代社会と言える中での革命は、暴動とイケイケの群衆心理が、一気に社会を変えていったかもしれない。威圧的な宗教への反抗のために、日曜日すら、一時消えてしまったのである。このときは、それなりにだが、一人ひとりの考えや判断というものが、事態を変えていく一面はあったことだろう。それがどんなに感情や勢いによるものだったにしても。
だが旧約聖書の戦いの記事は、いとも簡単に兵が集まり、何千、何万という人が死ぬ。誇張があったにせよ、また奴隷や傭兵を含むかもしれないにせよ、それらの兵は、ただの道具のように扱われた印象は拭えない。一人ひとりの考えや判断というものがあったようには想像できない。
尤も、イスラエルでは、サウル以前には、常備兵はなく、いわば一般市民を戦いのために集めて出て行くというような形であったことになっている。サムエルが、王を立てるとこういうことになるぞ、と脅したのは、王により常備軍がつくられ、そのために収税が厳しくなることは否めないからであったはずだ。
確かに、武力が民族の存亡を決める時代ではあっただろう。しかも「戦争犯罪」などという、ある意味で矛盾した考えすらないし、「紳士協定」が信じられる時代でもなかった。力でねじ伏せるというやり方で、野性味溢れる軍団が、酷い殺戮を繰り返していたのかもしれない。
だが、戦争に勝ったからといって、統治ができるかどうかは、その軍事力だけでは分からない。ローマ帝国が、ユダヤ人の文化を許し、ある程度自治を可能にしていたのは、寛容であるとも言えようが、そのようにしないと、広大な帝国を治めることができなかったわけである。反逆だけには、圧倒的な軍事力で制圧するという形が取れるようにしておけば、ふだんは穏やかであってよいし、そうしないと治められないのである。
ペルシア帝国も、その意味では寛容さをもって統治したようである。アッシリア帝国などに比べて、支配下の民族の文化を認め、自治権を与えるなどの政策をとったがゆえに、帝国は比較的安定した支配を保つことができた、と考えられている。またそれは、機会を窺う周辺諸国との関係もあったようだが、その辺りは歴史に詳しい方にお任せするほかない。私のような歴史のド素人が説明などできるわけがない。
バビロンに捕らえられていたユダヤ人の知識層は、ペルシア帝国がバビロンを滅ぼしたことにより、解放されることとなった。これを、ユダヤ人が神の業だと考えたのも、故なきことではない。まさに、神の導きだと解した気持ちは、よく分かる。
当人が、あるいは組織が、全く気づかず意識もしない中でも、神はその人物や組織を利用して、歴史を変えることができる。まずはこのような歴史の現実を押さえた上で、神の摂理というものをその背後に見ることは、ひとつの信仰となりうるだろう。ただ、それも決めつけに走ってしまうと、信仰というものが歪んでいく場合がある。思い込みは禁物である。
あなたが今回辛い思いをしたのは、神の導きですよ。こんな冷たいことを告げることが、信仰深いことだと勘違いしている人も一部いる。気持ちは分からないでもないが、そこはやはり自重すべきであろう。「すべてを益とする」と聖書に書いてあるからといって、安易に他人に適用することなどは、全く愛のない、神から遠い行いと見なされるに違いない。
戦争は、過去の物語ではない。命が助かる道を、神の手が備えてください。財の立て直しまで、導いてください。人を道具にする愚かさに、人類全体が気づきますように。それはまた、自身の自己認識能力と想像力の無さが招いている現実に、私を含め、一人ひとりが気づこうとする心をもつように、という祈りでもある。人の愚かさ加減は、自分自身を見れば分かる。歴史の背後に在す神の責任に帰すよりもなお、人の責任を顧みる者でありたい。その「人」とは「他人(ひと)」ではない。つねに「他人」のせいにする「人」も後を絶たないのであるが。