【メッセージ】癒やされたいと願うなら
2022年10月2日
(出エジプト15:22-27,ペトロ一2:24)
そして自ら、私たちの罪を十字架の上で、その身に負ってくださいました。私たちが罪に死に、義に生きるためです。この方の打ち傷によって、あなたがたは癒やされたのです。(ペトロ一2:24)
◆癒される・癒やし
猫に癒やされています。私よりもなお、妻がです。医療従事者として、コロナ禍において緊張と不自由を強いられています。その間、父親を亡くす不幸にも見舞われました。郷里を往復すること自体が危険でもありました。医療の当事者のことを理解してくれない人々にも傷つけられました。それが、公園で生活する地域猫たちと出会い、癒やしを与えられました。保護猫や地域猫を世話するボランティアさんたちに感謝の心を絶やさず、週に一度でも、猫たちに会えることが、なによりもの慰めとなっています。猫たちは、そして猫の世話をする方々は、日本の医療の一部を、確実に支えているのです。
皆さまは、猫に関してではないにしても、この「癒やされる」という感覚を、ご理解戴けると思います。ほっとするものに出会うと、私たちは「癒やされる」と言います。「癒やし」を与えられる、とも口にしますし、タレントでも身近な人でも、「癒やし系」というタイプの人がどなたかいらっしゃるのではないでしょうか。
「ストレス」ばかりの毎日だから、そこからほっとした気持ちになれるとき、「癒やし」を与えられる、そう私たちは言うことがあります。ところがこの「ストレス」という言葉、私たちがしばしばイメージするような、悪い意味の言葉ではないことをご存じの方も多いことでしょう。
ストレスとは「緊張」のことです。それはある程度は必要なものです。まるで緊張感のないままに医師や警察官が仕事をしている社会は考えられません。基本的には外からの刺激に対する心身の反応をいいますが、「強調する」という意味にも使われる語です。元々は「悩み」のような語感からできている、とも言われます。つながりがない悩み、孤立のようなものをイメージさせることがあるそうです。
このように、言葉には、その本来の意味や、拡大された用い方、変化した意味合いなど、いろいろな面を伴っているものがあります。「適当」という言葉が、本来まさにそれだという適していることから、いい加減な意味で使われるほうが一般的になってきたのもそうでしょうし、隠語的だった「ヤバい」も、悪い意味なのか良い意味なのか、さっぱり分からないようにもなっています。なんでも「ヤバい」と言っておけばよいような言語生活は、非常に危険である、という指摘もありますが、そうした件はまた別で考えることにしましょう。
とにかく、私たちが使う言葉に対する感覚が、常に適切な基準となりうるのかどうか、実はその都度疑ってかかるほうがよいのではないか。それだけ提言しておくことにします。
◆言葉の変化
「癒やし」の言葉について少し調べていると、あるレポートを、ウェブサイトで見つけました。「言語とマーケティング:「癒し」ブームにおける意味創造プロセス」(松井剛)といいます。「癒やし」は近年ブームになって広まった言葉のひとつだと思いましたので、それがいつ頃からだったのか、調べようと思ったのです。
すると、マーケティングに関心のあるこの方の報告によると、2000年辺りを境に、この「癒やし」という言葉が、新たな感覚で使われるようになってきた、というのです。具体的には、1999年のソニーの犬型ロボット「AIBO」の頃なのだそうですが、バブルが崩壊して、ホテルが不景気に陥った中、人の心を癒やすという方面に関心が向かっていったというのです。
「たれぱんだ」、覚えておいでの方もいらっしゃると思います。「癒やし系」キャラが現れました。ここで、落ち込んだ人の心を和らげてくれるような存在としての「癒やし」という言葉がよく使われるようになりました。当時「広辞苑」には、「癒やし」という見出しがなかったのだそうです。これが「癒やし系」という形で掲載されるのが、2008年。この感、「癒やし」という言葉が市民権を得てきたようなのです。
それまでは「癒やす」という言葉はありました。むろん、「広辞苑」にもありました。「疲れを癒やす」「病が癒やされる」は、あたりまえの言葉でした。しかし名詞の「癒やし」は、取り立てて用いられる語ではなかったのだ、というのです。
それまでは「ヒーリング」という外来語が、名詞として使われていたそうです。それは、いわゆる「精神世界」の用語のひとつでした。1960年代辺りから、アメリカを中心として、「ニューエイジ」運動が始まります。キリスト教世界でも、これは大変警戒されました。いまもなお、書店に行くと「精神世界」の棚には、「宗教」の何倍もの広さで本が埋まっています。「ヒーリング」は、この「精神世界」でよく用いられた言葉だったのですが、それが、2000年頃から日本では「癒やし」という言葉に塗り替えられていくのです。
◆聖書における「癒やし」
少し面白くなってきました。「癒やす」と「癒やし」とでは、たんに動詞と名詞という違いであるばかりでなく、はっきりと、使われる時期の違いがあり、意味合いも変わってきた痕が見られるというのです。それでは、聖書ではどうでしょうか。聖書はその当時の日本語のひとつの標準に基づいていますから、聖書では「癒やす」と「癒やし」との現れたかに違いがあるでしょうか。なおここでは、ひらがなの「いやす」と「いやし」について、漢字の使用との差は考えないことにします。
日本聖書協会のものだけで比較をします。いわゆる「口語訳」が1955年。それまでの「文語訳」から見ると、画期的な変更でした。差別語などの点で細かな変更を1975年以降、何度か施しています。「新共同訳」が1988年。カトリックとプロテスタントの初の共同訳ということでたいそう注目されましたが、その10年前に試験的に出された「共同訳」の評判が悪くて急遽方針を変更したために、訳語や表記においても混乱が残りました。ここまでは、今回注目している2000年以前、つまり20世紀の翻訳です。そして21世紀になって2018年に、再びカトリックと共同で「聖書協会共同訳」を出しています。
ここは学術論文の場ではありませんので、多少印象的にご報告することをお許しください。結論的に言うと、20世紀の訳では「癒やし」という名詞形は非常に少なく、21世紀ではそれが増えています。
かつて「癒やし」という名詞形で訳されていた言語は、ヘブライ語でもギリシア語でも、「癒やす」という動詞とは別の語でした。尤も、ヘブライ語のほうでは、語源的に関連する語のようです。ギリシア語の方では、別の語です。
名詞の「いやし」と訳されている語は、「口語訳」では、「いやしの賜物」(コリント一12章)しかありません。その意味では、よくぞ名詞にしたものだと思いますが、ギリシア語の差異からそうしたのかもしれません。面白いことに、「新共同訳」では、その箇所は「いやし」という名詞にはしていません。その代わりこちらでは、エレミヤ書で「いやしのとき」(8:15,14:19)と「いやしと治癒と回復」(33:6)だけが、名詞形になっています。これが、20世紀の聖書で「癒やし」という名詞が訳語に現れているすべてです。
それが21世紀の「聖書協会共同訳」になると、ここまで登場した箇所を含み、さらに6カ所に、「癒やし」という名詞が現れます。エレミヤ30:13とマラキ3:20を除くと、他の4カ所がすべて「箴言」(3:8,12:8,13:17,15:4)であることが特徴的です。特定の訳者の判断や好みというところに拠るのではないかと思われます。
このように見てくると、若干ではありますが、「癒やし」という名詞を使うことが広まってきた新しい時代に、やはりその名詞を訳語に充てやすくなってきているように思われます。
◆癒やす者
今回お選びしたテクストは、聖書の中で「癒やす」という言葉が、最も突き刺さるように使われている箇所です。
26:まことに私は主、あなたを癒やす者である。
主なる神、それは「癒やす者」であるのだ、と宣言しているのです。この場面は、イスラエルの民が出エジプトを果たした直後の様子です。モーセが、虐げられていたイスラエル人をエジプトから救い出すという、壮大なスペクタクルがありました。もちろんモーセ自身、最初は信用度がゼロでした。むしろモーセがエジプト王にたてついたことで、よけいに労役が厳しくなった背景もありました。
民族をエジプトから出て行く自由を与えなければ、エジプトに災いをもたらす、と挑戦的なことをモーセは王に述べます。すべて主なる神の言いなりではあったのですが、エジプトの川を血の色に染めたり、虫を呼んで人々を悩ませたり、作物を台無しにしたりしましたが、その都度王は態度を硬くし、イスラエル人をエジプトから去らせないように抵抗しました。最後にエジプトの子どもたちの命が奪われて、ついに勝手にしろと放り出されますが、それでもエジプト軍は、モーセたちを追いかけます。
葦の海を前にして迫るエジプト軍。モーセは、ここで海を分けて人々を渡らせるという奇蹟を起こします。そして追いかけてきたエジプト軍は、元に戻った海の水に、藻屑と消えたというのでした。
ところが荒れ野を三日進んだところで、水不足に陥ります。マラ(「苦い」という意味)という場所で、やっと水が手に入ったのですが、その水は「苦くて飲めなかった」(23)のでした。ミネラル分があまりに強かったのかもしれませんが、嫉妬に狂った夫が、疑わしい妻に「苦い水」(民数記5:19)で判定させる、という話を思い出させます。とんでもない話ですが、興味深い話ですので、どうぞ後で開いてごらんになるとよろしいでしょう。
モーセに神は、一本の木を与えます。それを水に投げ込むと、水は甘くなりました。後の時代にエリシャが、毒入りの鍋に麦粉を投げ入れると有害ではなくなった、という話(列王記下4:41)も思い出させてくれます。どうやら、ここでも「苦い」や「甘い」は、文字通りの味だというよりも、人間にとり悪なるもの、善なるもの、そういうものを指しているように思えてなりません。この時に、神がモーセに言うのです。
26:「もしあなたの神、主の声に必ず聞き従い、主の目に適う正しいことを行い、その戒めに耳を傾け、その掟をすべて守るならば、エジプト人に下したあらゆる病をあなたには下さない。まことに私は主、あなたを癒やす者である。」
神が癒やす者だと言ったのは、エジプトに下した病とは対極にいるのだ、ということの宣言であるようです。エジプトに十の災いをもたらしましたが、その災いをイスラエルにもたらすことはない、と言おうとしているかのように見えます。主の言葉に従え。ならば、あなたは害を受けない。「癒やす」と言いながら、病気を癒やすという働きを直接示しているのではないし、ましていま私たちがイメージするような「心の癒やし」のようなものでもないことは、心に留めておきましょう。ただ、あなたを善きものに導くひとつの道のようなものを重ねることは、必要であるように思われます。
◆神癒
心の癒やしという問題は、近年益々大きな意味をもつようになっています。学校に行きたくない、仕事場に行く足が止まる、そんなことも当たり前のようになりました。外に出られず家に引きこもるというのも、もはや若い世代に留まらず、かつての若い人がそのままいまや壮年になっているという問題もあります。それは、時に社会問題として論じられることもあります。ブームとして論じられるのも、当事者にとってはたまらないということがあるでしょう。本人は、本人ではどうしようもないままに、辛いのです。教会は時に、そうした人を助けることもしてきました。今後も、呼びかけ、また受け容れる場として責任をもってやっていけることがあれば、と願います。
他方また、身体的な病気もまた、深刻です。これは、心の向きを換えたところで、病魔の蝕みは変わりません。もちろん新型コロナウイルス感染症の場合もそうでした。これに対する医療従事者の苦労は、簡単に説明できるものではありません。銃弾の飛び交う場で日々ひとの命を救っているのです。しかしまた、医師にもどうにもできない病気は、昔から多々ありました。医者に投げ出された患者を抱える家族は必死です。
キリスト教関係で、「癒やし」をアピールするところがありました。いえ、いまもあります。時折「癒やしの集会」なるものを開き、不治の病の患者を連れた家族が集まることがあります。病気の親を背負って癒やしの集会に、必死の思いで通う、そういうこともありました。それを機会に、キリスト教会に導かれた人の話を、幾度も聞いたことがあります。そうした時代がありました。そして現実に、イエスの手が伸ばされ、奇蹟が起こった、ということは、大きな証しとして語られました。しばしばそれは「神癒」と呼ばれました。時に、それをなした牧師が、カリスマ的な存在になるということも、ありました。
ドイツに19世紀、ブルームハルトという牧師がいました。父子どちらもその名で牧師でしたから、ブルームハルト父子のように呼ばれることがあります。とくにその父のほうは、「イエスは勝利者」と叫びつつ、癒やしを行う賜物があったとして有名です。その様を目撃した人が次々と信仰に立ち帰りました。いわゆる「リバイバル」がこうして起こったのです。
いまもそうした要請はあります。治りたい、治してほしい、というのは切実な、真摯な思いです。だから、世の中には、手をかざして病気が治るとか、ヨガで体質が変わるとか、危険な誘いもたくさんあるのです。一定の注意はして戴かなければなりません。しかし、だからすべては嘘だ、くだらない、などと言ってのけるのもどうでしょうか。当事者ではない者が、分かったような口を利くのは、慎まなければならない場合があるのではないかと思います。
◆イエスの癒やし
二千年前に、そのような癒やしの集会を開いて、大評判になった人がいました。
その時、イエスは病気や苦しみや悪霊に悩んでいる大勢の人を癒やし、大勢の目の見えない人を見えるようにしておられた。(ルカ7:21)
洗礼者ヨハネの弟子たちが、イエスが本当にメシアかどうか確かめに来る場面ですが、ここに限らず、新約聖書のイエスは、実によく人々を癒やしています。もう少し聖書や神の話をしてあげればよいのに、と思えるようなときでも、ひたすら病気を治しています。汚れることを恐れて、病気の人に触るような人すら少ない中、イエスはどんどん触ります。時に、目の見えない人を見えるようにするという、とてもありえないようなことをも行っていて、幾つかの記事になっています。また、死んだと思われた人をも生き返らせたこともあります。しかし、特に一つひとつが記事にならなくても、多くの人を癒やした、というだけの記事がたくさんありますから、その実数は数え切れないほどではないかと想像されます。
宣教活動は、とにかくまず癒やすことからスタートした、それは間違いありません。神の言葉を語り広めようなどとしてはいません。神の言葉について、その文化の中にいる人々は、きっと知っているのです。その前提で、病に苦しみ、癒やしを求めていたのです。この背景に、私たちは気づいていない場合があります。神があるかないか、などという議論は、聖書の文化の中ではありえないということにすら、気が回らないことがあるわけです。
実際、病気で苦しんでいた人が多かったのも確かでしょう。医学の発展が追いついていないこともあります。事実治せない病が多く、薬も限られています。たとえ医者がそこにいても、医者にかかる金がない、そういう人のところに、イエスは行ったと思われます。たとえなけなしの金を払ってでも、「多くの医者からひどい目に遭わされ、全財産を使い果たしたが、何のかいもなく、かえって悪くなる一方」(マルコ5:26)だった女性もいました。
ですから、いまでもそうですが、病人が出ると家計が成り立たなくなるようなことも大いにあったはずで、深刻な問題であったことでしょう。そんなところに、病気を癒やす力があるイエスの評判は、風よりも速く伝わったに違いありません。大勢の群衆が集まったのも当然です。
時に、イスラエルの王が病気になった描写が見られますが、そこにすら、その病気が罪の故だという空気が流れることがあります。まして、庶民にとって病気とは、正に罪の故だとされて当然でした。貧しいが故に、栄養が足りず、衛生環境が悪いことで病気に追い込まれる場合が多かったでしょうに、気の毒です。これがまた、差別の根拠にもなりました。
となると、病気が治るというのは、差別から救われることでもあったと思われます。「癒やし」は「救い」でもあった、というスタンスで見ておくことは、私たち聖書を読む者にとり、大切な視点ではないかと、私は考えています。
◆癒やされたいと願うひと
今の時代、そこまで差別はないと思われるかもしれませんが、新型コロナウイルス感染症のために犠牲者が増えた国には、貧困層の人々の死亡率が高かったと思われる場合が、多々ありました。聖書の時代の不条理は、いまもまだ解決されていないことを感じます。政府が無料で国民全部にワクチン接種を可能にする社会を、私たちは大切に捉えてよいのではないかと思います。
それでも、あなたは思うでしょう。癒やされたい、と。何についてだか、私には分かりません。癒やしというものが、心身両面に感じられる私たちです。現実の病気のこともあるでしょうし、心の状態や性向についてもありうるでしょう。家族の問題で心を痛めている人もいるでしょうし、近所の人や学校・職場の人との人間関係に悩む人は少なくないでしょう。学校や仕事のことで大いに悩み、心が癒やされたいと思うのは、もう日常的であるかもしれません。猫に癒やされる道があるのならば、まだ幸せだ、と最初の話で思われた方もいらっしゃるのではないでしょうか。
何か、癒やされたい。癒やしを与えてほしい。そう願うことが、悪かろうはずはありません。聖書の中で、イエスが、あなたを癒やすと言ったのを見て、その言葉を信じる、それも素敵です。大いに心の支えにすべきです。
聖書には、今日見てきただけでも、幾つもの癒やしの可能性がありました。出エジプトで危機一髪だったイスラエルの民に、すぐにやってきた苦い試練。しかし神はすぐに、甘い水を与えました。とにかく病気や苦しみに悩む人々、それらの原因が分からないのはすべて悪霊のせいであるとした故に、悪霊のために苦悩する人々、そうした人々を、イエスはひたすら癒やしていたという記事がありました。
しかしまた、聖書は究極の癒やしの業を、私たちに明らかにしてくれています。
そして自ら、私たちの罪を十字架の上で、その身に負ってくださいました。私たちが罪に死に、義に生きるためです。この方の打ち傷によって、あなたがたは癒やされたのです。(ペトロ一2:24)
「イエスの十字架」が人を救うような言い方を、聖書はしていない。そう主張する声があります。十字架ではなく、「イエスの死」に意味があるのだ。但し、それこそが人間を罪から救う、とするのは無理がある、などと。けれどもその見方は、十字架=死 という、狭い思い込みに基づいているように私は思います。「整数」と聞けば「自然数と0」しか知らない小学生ならば、その理解でよいのですが、中学生は、負の数を学びますから、整数と自然数とは大幅に異なることを知っています。
確かに「死」は重要な概念です。私たちは罪に死に、命に生かされるという経験をもするのです。十字架の意味が「死」という意味と完全に同じでしかない人にとっては、十字架のイエスとの出会いは、その「死」にしか関心が向かないかもしれません。けれども、「十字架」には、「死」限らない、もっと別の感じ方があってもよいと思うのです。ただ「死」であるよりほかの面についての出会いが、「十字架」にあるということがあるだろう、と。さらに言えば、十字架の上に架けられたイエスの姿だけが、その「十字架」という言葉の指すすべてではない、と私は受け止めています。
イエスは、罪を犯さず、偽りを口にはしませんでした。罵られても、苦しめられても、自らそれに対抗はしませんでした。そういうことは、神の手に委ねたのです。そして「私たちの罪を十字架の上で、その身に負ってくださいました。私たちが罪に死に、義に生きるためです」という具合です。
それに続いて、「この方の打ち傷によって、あなたがたは癒やされたのです」と今の箇所は告げています。イエスはあの夜、逮捕された後(マルコによる福音書に基づいて挙げますが)、唾を吐きかけられ、目隠しをされ拳で殴られ、平手で打たれました。罵声を浴びて、周りのすべての人が敵となり、鞭打たれ、茨の冠をかぶせられました。葦の棒で何度も頭をたたかれ、また唾を吐きかけられした。そして自ら打ち付けられる死刑台の杭を背負わされ、よたよたと歩き回らされました。
その後、釘打たれました。その傷は、ただ釘だけの傷でしょうか。十字架という死刑台だけが、イエスの傷なのでしょうか。私は違うと思います。鞭を40回近く打たれたでしょうか、その一つひとつを数えようとしないで、イエスの痛みの、何を想像したというのでしょうか。殴られた痛み、罵声を浴びせられる痛みは、数えてはいけないのでしょうか。しかもその罵声を浴びせたのが、自分だという自覚もなしに。
その、一つひとつの傷によって、確かにあのとき、「あなたがたは癒やされた」のです。「あなたがた」とは誰ですか。そう、私たち、この私でよいのです。私は癒やされたのです。確かにあのイエスの傷によって、癒やされたのです。
けれども、苦い思いをしている人々、不条理な苦難を背負わされた人々が、見渡せばたくさんいます。政治的に不当な扱いを受けて自由を奪われた人々、殺された人々もいます。戦火に逃げ惑う人々がいます。家族や住まいを奪われ、いま食べるもの・飲むものに事欠く人々がいます。金を吸い上げようとする企みにより騙されて、経済的に破綻させられた人々がいます。コロナ禍で差別を受けたり、仕事を失ったりする人々もいます。
そして、私がそんな思いをさせた人が、います。
私が傷つけた人、いまここで「すみません」と言っても届かないような人、また仮にここまで来て謝れ、と言われてもとても出向いて行けそうにない、そういう人が、います。いまあるとき、癒やされたい、と私は願うでしょう。しかし、私が傷を負わせたあの人もまた、癒やされたいと思ったに違いありません。だったら、あの人も、癒やされてほしい、そう願っては、いけないでしょうか。あの人も、癒やされてほしい。
そうした願いは、あなたにも、ありませんか。もしあったら、どうすればよいでしょうか。祈りましょう。