うるさい
2022年9月29日
京都に住んでいたことはあったが、離れると、京都地元の話題には疎くなる。偶々知ったことがある。「泣いてもかましまへん!」ステッカーなるものが配布されているという。電車やバスのような公共の場で、赤ちゃんが泣いても、気にしないから大丈夫だよ、というメッセージを伝えるものなのだそうだ。
主催は「京都府子育て環境日本一推進会議」だといい、この動きは「WEラブ赤ちゃんプロジェクト」のひとつなのである。
京都市バスで昔、長男を抱えて出勤する妻は、大泣きをされたとき、途中でバスを降り、泣く泣く歩いて帰ったことがある。もしも周りが許したとしても、子どもを抱えた親としては、いたたまれない気持ちになるのは事実だ。それでもなお、気にしないでください、という気持ちを促すスローガンが社会で認知されていると、いまの若い親たちには、よいことかもしれない。
私などは、ひとの話し声はうるさく感じるのに、子どもが泣くということについては、何も悪く感じないタイプである。泣きたいんだねぇ、と思うくらい。だが世の中にはいろいろな人がいる。これを「うるさい」と感じる人がいても、おかしくはない。「うるさい」とは思うな、と命ずるのもどうかしているだろう。疲れ切っている人には、気の毒である。
同じ「うるさい」でも、耳を傷めるほどの音もあるだろう。恐怖を味わわせる響きの場合もあるだろう。静かな場所では、少しの音でも「うるさい」と感じる場合がある。電車の中で私が気に障るのは、むしろこちらのケースである。
これらは音の問題である。「うるさい」というのは確かに聴覚についての言葉である。だが、私たちは視覚においても、「うるさい柄」のような言葉の使い方をする。細かな図柄がひしめきあっているようなときに、「うるさい柄」だと言わないだろうか。共通感覚と呼ぶほどのものではないが、言葉の上で、別の感覚に相応しい言葉を用いることがあるわけだ。「静かな絵」も似たようなものだが、「明るい曲」というのも、考えてみれば視覚的な意味の言葉を音に当てている。ひところ、「おいしい仕事」のような使い方も流行った。うまく使えば、新鮮な感覚に思えて、言葉が拡がることがあるものだ。
そこにいたら目障りだ、という意味で「うるさい」と声を発することも、あるだろう。概して、邪魔者に対して「うるさい」という言葉を使うようにも思える。そもそもこれは漢字を使うなら普通「五月蠅い」と書くと思うが、旧暦の五月、つまり梅雨時にハエが盛んに活動するようになることからきたのだ、と聞いている。「五月雨」が梅雨の雨、「五月晴れ」が梅雨の合間の空だというのと同様の月名である。ここから考えても、「うるさい」というのは、邪魔なもの、いなくなってほしいほどに不快な存在に対する感覚を示す言葉なのか、という気がする。
だが、「味にうるさい」と言えば、良い意味でのこだわりをもつことでもある。自分にとりおいしいものを求めることに力を入れているというのは、特に非難すべきことではない。だが、味について、普通なら黙っているところを、あれこれと声高に話すという様子を想像すると、確かにそれは、音が大きいかもしれない。「うるさい」と思われても仕方がないのだろう。
「親がうるさい」と中学生あたりが口にしそうな言葉もある。音量がうるさいのではなく、言われたくないことを繰り返し言ってくる点で、うっとうしいと感じることを言っているのだろう。ただ、この「うるさい」は、それが自分のために言ってくれていることが分かっている、というニュアンスも隠れているのではないだろうか。表向き「うっせぇわ」と拒んだにしても、それが何らかの善意に基づいて言ってくること、またそれに従うほうが自分にとっても本来よいことであると薄々ながらも分かっていること、その辺りを踏まえた「うるさい」との気持ちであるようにも考えられるのである。
もしそうだとすると、私がこうして説教や聖書について「うるさい」のも、ただ単に「うざい」だけではなく、善意に基づいているのだ、ということも、分かってくだされば幸いであるのだが……。いや、だから迷惑などかけていない、などとは言わないつもりだ。
ともかく、神は「うるさい」くらいに祈り求めることは、嫌がっていないものだろう。ひとに対してしつこくうるさくしていると、逆に身が危ないことになるかもしれないから、神にのみ、うるさく立ち向かうことにしよう。