告発者と罪
2022年9月27日
「告発」とは、辞書的にいうならば、「悪事や不正を明らかにして、世間に知らせること」をいうものらしい。法的には、「犯罪とは関係のない者が捜査機関に犯罪を申告すること」という感じのようだ。
聖書で「告発」という言葉は、このような意味で使われているようには見えない。なんと、神がイスラエルを告発する、というような言い方がいくつもあるのだ。他に目立つのは、使徒言行録の終盤になって、パウロの取り扱いに関して、幾度も登場するくらいだ。だが、ひとつ、重要な意味で「告発」が使われている場面がある。
この巨大な竜、いにしえの蛇、悪魔ともサタンとも呼ばれる者、全人類を惑わす者は、地上に投げ落とされた。その使いたちも、もろともに投げ落とされた。/そして私は、天で大きな声がこう語るのを聞いた。/「今や、我々の神の救いと力と支配が現れた。/神のメシアの権威が現れた。/我々のきょうだいたちを告発する者/我々の神の前で昼も夜も彼らを告発する者が/投げ落とされたからである。(黙示録12:9-10)
つまり、悪魔ないしサタンが「告発する者」であると説明されているのである。「サタン」はヘブライ語系であり、「ディアボロス」はギリシア語系である。以後「悪魔」と呼ぶが、それは「神の敵対者」と受け取られているのではないかと思う。それが「告発者」だという使命を帯びているというところに、いま注目したい。
告発するというのは、その対象が犯罪者である、と指摘することである。悪いことをしていますよ、不正を働いていますよ、と公表するのである。平たく、これは「罪を指摘する」と表することとしよう。こうして悪魔は人を告発することで、その人を有罪にもちこもうとする。神の審判ないし裁判において、有罪へ持っていきたいのである。しかし、神は弁護人を立てた。また、その罪から被告を買い戻すための支払いを、イエス・キリストの十字架の死という形で完遂した。聖書の救いの考え方の中には、裁判や法の手続きや構造が隠れている。当然そうだろう。神とイスラエルとは、「契約」関係にあったからには、正に法的な関係にあるからだ。
おまえは罪がある。そう告発するのは、悪魔の仕業だという理解がここまでなされてきた。人間にとり、迷惑な奴である。だがこれは要らないことなのだろうか。私に罪があることを指摘する者がなかったら、私は自分に罪があることを、知るだろうか。誰が好き好んで、自分は悪人であると思いたいだろう。一般的に、自分には罪があるということなど、人は考えていないのではないだろうか。考えたくもないのではないだろうか。
否、中にはナーバスなあまり、自分は生きていく価値がない、といった考え方をする人もいる。また、そう思わせることを精神的な病だとする理解もある。もしも、悪魔の告発なしに、自分には罪がある、という自覚をするのは、メンタル面でいくらか危険なものであるのかもしれない。
自分で気づく、という稀なケースを想定しよう。自分の罪が分かった、という具合である。お気づきだろうが、キリスト教の掲げる「救い」というものは、この段階が出発である。時折、これなしに、あなたはありのままで良い、というような引き込み方をする教会や説教があるが、それはまやかしである。「罪」を通らずして「救い」はない。だから、自分には罪がある、自分は罪人だ、という自覚があることは、救いのために欠くことのできない段階であると数えられる。
それは恰も、自分で自分を告発するかのようでもある。つまり、私は自ら悪魔となって、私を告発するのである。
これを聞くと、不愉快になる人がいることだろう。何故自分は悪魔なのか、と。「悪」の文字が使われているので、そういう見え方になってしまうのは当然である。だが、そう思う必然性はなさそうだ。最近『絶望に寄りそう聖書の言葉』(小友聡・ちくま新書)という本が発売された。著者は、コヘレトの言葉について詳しい牧師・神学者である。近年テレビでコヘレト書を紹介して、注目されている。この本から少し引用する。ヨブ記の最初のところについての解説の部分である。
新約聖書では、サタンは神と対極の存在である悪魔として登場するのに対し、旧約聖書では、サタンは神の支配下にあり、神の周りに集まる「天使」の一人なのです。サタンは人間の罪を糾弾する告発者ではありますが、神と対極の悪魔というイメージではありません。(p181)
悪魔が天使の一人だというのは、驚くことなのかもしれないが、堕天使が悪魔であるというような語りは、聖書の中にもある。悪魔と同じように私を、ただし私が、告発したとしても、告発者が即座に悪魔だとい言うべきではないように思われる。まるで悪魔すら、救いへの善い働きを担う仕事をしているかのようだから、大いに罪は告発されるべきである、としたからと言って、見当違いではないだろう。
繰り返すが、何らかの告発があってこそ、私たちは自ら罪ありと認識する。だがその罪は弁護される。イエス・キリストを通して、無罪が確定する。ここに「救い」の裁判が結審するのである。
ところで、精神医学の領域で、「病識」という言葉がある。簡単に言うと、患者が自身病気であると分かっていることをいう。煙草は体によくないと指摘されても、自分は吸うのだ、というようだと、まだ自分の状態を認識しているように思われる。問題は、この「病識」が欠如している場合である。それは、統合失調症の診断に関わるものであるという。判断する心そのものが適切に機能していない場合、その病気であるという自覚がもてないということになるわけである。
人間には、深い罪がある。自分には、罪がある。キリスト者でなくとも、「胸に手を当てて」みれば、そういうことを覚える人がいるはずだ。それは大切なことである。だが、中には、自分には悪いところなどない、と本気で言い張る人がいる。人前だから見栄を張って言うのならともかく、心底そう思っている人がいる。これでは「病識欠落」と同じである。これは厄介である。救いのニュースである「福音」が届かない。そればかりか、自分はキリスト教徒だと公言しているが、全くこれが欠落しているような人もいる。聖書なんてよく分かっているよ、などと吹聴しているとなると、どうしようもない。
ひとは、天使的な意味での悪魔になるべきである。自分の罪に気づく必要がある。これは、信仰が与えられた最初の頃には、ずきずきと分かっていたはずである。それが、教会生活を続けていくうちに、今と関わりのない過去になってしまうことがある。もしも教会組織が、そうした状態の人々によって支えられ、営まれていたとしたら、と思うと恐怖を覚える。
福音書を読み続けていたら、また命ある説教が語られていたら、そんなことはないと思うのだ。聖書を確かに信仰していたら、説教が神の言葉をもたらしていたら、そんなことはないのだ。私たちは、耳が痛いという程度で拒んではならないものがあることを知る。腸がちぎれるような思いを自分自身のために懐くことが、どこかで必要だと私は受け止めている。それがあってこその、十字架であるのだ、と。