説教批判

2022年9月24日

「説教批判」という言葉がある。世の中には「批判」という言葉を聞くと、それだけでもう血が頭に上る人もいるが、ドイツ思想を少しでも知る人は、穏やかに応じるはずである。カントの「批判書」が物語っているように、「批判」とは、日常日本語で用いる「検討」または「吟味」という程度の内容を指す語と捉えているだろうからである。しかし、やはりただの「検討」とは違う。「検討」なら自分ひとりでもできるが、「批判」は恐らく他者の眼差しをどこかで介している。そして、「検討」ならば対象を評価してそれで終わりとなることが多いが、「批判」は、そこから対象をさらに一段高いところに導く作用を、きっともたらすのである。
 
キリスト教の説教者たちが、「説教」について互いに批判する。これは日本では、加藤常昭先生が、「説教塾」を開くにあたり、必要不可欠とした方法であり、道である。加藤氏は、ドイツに渡りこの説教批判を、学んだと思われる。また、大学では哲学を修めている。礼拝説教に、ドイツの「批判」精神を適用した、などと簡単に言うことはできないが、カントが理性によって理性自身の能力を問い詰めたように、礼拝説教という、説教者自身の魂を懸けた出来事の中に、徹底的な吟味の視野をもとうとしたのだろうと想像する。
 
そのため、「説教批判」には「説教分析」が伴う。カントもまた、理性に対する分析論を展開している。理性自らがそれをなすので、それは「超越論的」という観点であることが常につきまとった。説教の場合は、説教で説教を検討するのではないため、説教を用いながらも、説教とは別の場でそれを行うものと思われる。それが「説教塾」という営みであるのだろうと私は推測している。
 
2008年発行の『説教批判・説教分析』という書物がある。この中には、加藤氏が他で論じた説教についての理論を再掲し、続いて幾人かの牧師の説教を実際に取り上げ、それをどのように「批判」していくのか、を提示している。実に精緻で、整った議論がそこになされていたように思う。これを見ていたために、この「説教批判」の現場というのは、なんと知的で、かつ霊的であるものだろうと空想していた。だが、実際の「批判」の現場というのは、これほどまでに整然と議論が噛み合って展開するものではないのではないか、という邪気の混じる思いも、どこかにあった。
 
いずれにしても、「説教」のために切磋琢磨するこの営みは、ドイツで提言された説教の研究を日本でなんとか、という祈りと共に三十年余り以前に始められた。もちろん最初は小さなグループであったが、いまは世界の国々の数ほどの数のメンバー(少し前の数字であると思われる)を抱え、日本各地での集いが開かれている。
 
礼拝説教は、神を礼拝する場での聖霊の働きと捉えたい。それは神の言葉として語られるものであり、それ故に命の言葉がもたらされる営みであるはずである。それは、必ずしも語る側だけの作品ではない。会衆と共に建てられていくものだと考えている。その場にいる、命ある人々の眼差しと受け容れる心、求めるものや神との関係、そうしたものが相俟って、語る言葉がそこに注がれていき、あるいは結びついていく。
 
だから説教塾における「批判」が、ただ説教原稿を仕上げるためだけだ、としたら、それはまだ中途半端であるに過ぎないだろう。しかし、そのようにしてでも語る側の意識を高め、より神に信頼する術を覚えるために、繊細な心を育むことを企図するのだとしたら、大いに意義のあることだとしなければなるまい。まずそのように研くことを考えなければ、教会は、ただの人間的な集まりへと流れ落ちてしまうことを懸念する。なあなあで礼拝という形式を調えるために、時間つぶしの聖書講演会を、お決まりのように繰り返し、その説教について信徒の誰もまともに聞かず、話題にもしないというような組織が、現実にあることを私は知っている。これは別の意味で説教について批判しなければならないであろう。
 
「説教塾」に限る必要はない。キリスト教会が「説教」というものに対して真摯に向き合い、神からの命を注ぐ通り管であろうとすることを説教者が祈り求め、共に研き合うならば、枯れ骨は音を立てて近づくことだろう。コロナウイルスが象徴するように、人々は分断され、距離を置かねばならないようになっている。しかしこの祈りと働きによって、骨は近づく。そこにやがて肉が生じるであろう。そのとき、生きた説教が語られることによって、霊が四方から吹いてくるであろう。すると教会は生き返り、おびただしい大軍となるであろう。事のからくりを冷静に知るのは、それから後でいい。



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