ダメ男がモテる話

2022年9月13日

ダメ男が、ふとしたことから、モテ始める。ダメ男というのは言い過ぎかもしれないが、本来いわゆるモテタイプではなく、ダサい部類にしっかり入っているような男の子、あるいは非常にオクテであるような男の子が、とびきり可愛い女の子に好かれ、それを見てまた他の女の子たちがその男の子の周りに集まるなどして、男の子は可愛い女の子たちに囲まれ、奪い合いのようにされる。でもどの子を選んでよいか分からないことも……。
 
最近のアニメの中にある、ひとつのパターンである。たいして話を追いかけていないのに言うのも厚かましいが、この構図のものが、いくつもあるようだった。私はどうしてもリアリティを感じない。もとよりアニメの世界にリアリティが必要かというと、そういうはずもないのだが、あまりにも男の都合のよいような妄想めいているものを感じてしまうのである。だから、この女の子たちの間が修羅場になる必要はないのだが、さらにその冴えない男の周りに集まった女の子たちが、友情めいたつながりをもつようになることがある。傷つきたくない心理なのかどうか知らないが、どうしたものか、という気にもなってくる。
 
また、藤子不二雄たちのマンガは多くマンガになったが、主人公の両親は、たいてい父親の背が低く、母親がすらりと背の高い描かれ方をしている。赤塚不二夫のバカボンも背の高さについては同様である。もちろん、男性の方が背が高くあるべきだ、と言っているのではない。藤子不二雄の場合、どうしてこうも殆どがそうなっているのか、ひとつの強い信念や型があるに違いないとしか思えなくなるのである。
 
私が小さいころ、私の父がこのことを指摘した。作者が男だから母親のほうを美しく、大きな存在のように、いわば高い理想をもって描いているのではないか、というふうに考えていたようだ。そうかもしれない。
 
その主人公が男の子である場合が多い。その男の子にとり、母親は大きな存在である。そこから出てくる憧れのようなものが反映されているのかもしれない。また、この男の子、ありふれた子であるし、さしてモテる要素はないが、人気の的であるような女の子と親しく、またその子に好かれていることが多い。これは、男の子に感情移入した場合、実はこうした普通の子やダメな子がモテてほしい、という願望が実現される世界を描こうとしている、という可能性もある。
 
これは、いまのアニメにしても踏襲されていて、主人公の冴えない男の子が、多くのモテる女の子たちに囲まれるという図式とつながってくる。流石に藤子不二雄のようなデフォルメされた絵柄ではなくて、よりリアルな人物を描くアニメの場合、母親の背をやたら高く描くというふうではないような気はするけれども。
 
いわゆる少女マンガ系だったらどうだろう。父親のほうが背が高いのが普通であるように思えるし、今度は逆に、失敗ばかりでドジな女の子に対して、プリンス的な男の子が、そんな君が好きだよ、というような形が、ありがちでもある。もちろん例外も多々あるだろうし、こうした図式を崩すべく努めている作家もたくさんいるに違いないのだが、ポピュラーな作品では、えてして、というふうにも思える。
 
しかし、掲載する雑誌にもそれは関係するだろうとは思う。高橋留美子はもう40年以上も第一線で活躍しているが、掲載誌は少年サンデーなど小学館の男性誌だったために、ダメ男と憧れの美女という方向で収まる作品が多いように見受けられる。必ずしも作者がどうだというよりも、読者目線での構成ということになるのだろうか。
 
ところで「聖書」は、聖なるきよい教えの書であるような名前をもっているが、決してそうではないことが、実際に開いてみると分かる。人間の汚さと罪にまみれた姿が、これでもか、というほどに押し寄せてくる書である。正にダメダメ人間が主役であり、それでもなお、なぜか神に愛されてしまう、という話運びが多い。時折ヒーローも登場するが、よく見ると、どのヒーローも、ダメダメ部分をふんだんに有している。いま、ある教会ではそのアブラハムの黒歴史をベースにした福音を展開中だが、「信仰の父」と賞される人物すら、人間に過ぎないことを聞く側が弁えることで、いっそう神の前にダメダメな自分から見える景色が、きらびやかに見えてくる。
 
人間は、ダメでいい。自分はダメだ、と自覚するところから、初めて見えてくる世界がある。それは、自分の中からではなく、外から、現れてくる世界である。



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