叫び (ルカ18:35-43)
2022年9月12日
イエスがエリコに近づかれたとき、ある盲人が道端に座って物乞いをしていた。(ルカ18:35)
盲人は、賑やかな様子について疑問に思うが、ナザレのイエスが来たのだと知る。芸能人がいるぞ、という程度のものではない。大変な騒ぎであっただろう。「ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください」と彼は叫ぶ。窘められても、さらに叫ぶ。「先に行く人々が叱りつけて黙らせようとした」というが、その中に私がいないかどうか、よくよく調べなければならないと思う。
イエスにその声は届いた。「イエスは立ち止まっ」たという。ルカのイエスは、エルサレムしか見ていないようなところがある。その急ぐ足が止まる。それだけ、その叫びには、何かがあった。「何をしてほしいのか」とイエスはその盲人に向かって言う。盲人は「主よ、また見えるようになることです」と答えた。しかしイエスも、それが盲人だと分かったはずであり、「何をしてほしいのか」という質問は問いは、無用なのではないか、と思う人がいるかもしれない。あるいは、イエスはそんなことも見抜けないのか、とせせら笑う人も中にはいるだろう。
盲人は、ただ「憐れんでください」から、具体的に「また見えるようになること」へと求めを進めた。自分の中の求めを、はっきりと掴むことになったのだと思う。「また」と言うからには、かつて晴眼であった者が途中失明したらしいことが窺える。
私たちは、かつてイエスを見ていたかもしれない。だが、いつしか見えなくなっていなかっただろうか。――この問いかけは、分かる人には分かるだろう。分からない人には、分からないだろう。野暮な説明は、しない。分かる人は、幸いである。
だが、自分が再び見えるようになることを、ダビデの子ならばできる。「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った」とのイエスの言葉により、彼は、再びイエスが見えるようになった。言葉にして、当のイエスに向けて、はっきりと、求めるところを口にしたことは、イエスに対する信頼となって現れたというのだろうか。
だが、見えればそれでよかったのか。それもなんだか違うように思う。イエスと確かな出会いを経験したということは、彼にとり、かけがえのない出来事となったのではないか。
盲人だからこそ、憐れまれておめぐみを戴けたのだ。晴眼者になれば、物乞いは、もうできなくなる。それは、それなりにあった収入がなくなるということである。見えるようになるということは、勇気の要る願いだったはずだ。見えれば万事めでたし、という結論が待っているのではないような気がする。しかし、彼は神を崇めた。そして、「イエスに従って行った」という。イエスに従う人生は、助け起こされた私たちに備えられた、一筋の道であるのだ。
助けを必要としていながら、叫べないような人もいる。何を叫んでよいのか分からない人もいる。あるいは、叫ぶことに疲れ果て、もう何を自分が求めているのかさえ、分からなくなってくる人がいる。声も出せなくなり、動けなくなった人は、「あなたの信仰があなたを救った」とイエスから言葉をもらうことはできないのだろうか。そんなことはない。その人が倒れていれば、イエスもまた、その人と共に倒れていただろう。その人が絶望していたならば、イエスもまた、絶望していただろう。だが、イエスはそれで終わらない信仰というものがあることを知っている。イエスとの交わりが、それを与える道となる。
イエスは、この後間もなく、十字架に架けられることになる。