【メッセージ】疲れたあなたへ
2022年9月11日
(マルコ15:25-41,エレミヤ31:25)
わたしは疲れた魂を潤し、
衰えた魂に力を満たす。(エレミヤ31:25・新共同訳)
◆疲れ切った人へ
真摯に身を粉にして働いている。けれども評価されないどころか、飛んでくるのは誹謗中傷めいたものばかり。どうかすると、表向きは「ありがとう」というような言葉も向けられるが、それが心からのものでないことは、すぐに分かる。また、ただその場凌ぎの慇懃な挨拶であって、その次の瞬間から、見事に忘れ去られている。「祈っています」などと建前で言われはするが、その人が実際祈ってなどいないことは明らか。祈っていたならばとても言えないようなことを、その人が言っているのを聞いてしまった……。
ただ「疲れた」とも言えないような情況が長く続いている人が、います。辛いけれども、そのことを誰にも理解されないでいます。世の中に、そんな人は多々いるでしょう。今日は、キリストを信じているという人で、そういうケースを念頭に、しばらく想像力を働かせてみる時間をもちたいと願います。もちろん、まだ信仰をお持ちでない方も、蚊帳の外に置くつもりはありません。できるだけ、どなたもご参加できるような形で、お話しできれば幸いだと思います。
人に理解されない中で、黙々と堪えている。そのこと自体が辛いというわけでもないのです。人々が無理解であるからと言って、それを恨むような気持ちを起こしているのではありません。もっと自分に感謝しろ、と迫るような気でいるわけではないからです。もしそうなら、自分がどんどん貧しい心になっていくような気がします。キリスト者の場合には、自分と神との関係が、そんなことで崩されたくない、というふうにも考えています。
投げやりになる、酷くなると自暴自棄になる可能性もありましょうから、そういうふうにしたいのでもないのです。自分のすること、あるいは自分というものに、まだ誇りをもっているという部分があります。
どんな職業や立場であっても、こうした言い方があてはまる場合があるものと思い、少しだけ抽象的に呟いてみました。そこで今度は、いくらか具体的なイメージを懐くことができるように、ある人々の場合を想像してみることにしましょう。
◆政治家
それは、政治家です。政治家というと、私たちの不満のぶつけ先であるかのように見ている人がいるかもしれません。けれども、想像してみましょう。政治家は、疲れています。早朝から深夜まで論議の場にいることもあります。各地を駆け回っています。それでも、いくら政治活動をしても、万人に益となることができるわけではありません。とすると、意見の異なる人たちから、何かと悪口が飛んできます。しかし通常、悪口を言われてそれでキレたら、もう政治生命がなくなってしまいます。マスコミも世間も、轟々たる非難を畳みかけてくるのですから。
新型コロナウイルス感染症に、世界は悩まされ、日本は2年半以上にわたり、同じような態勢です。そしていま大きなピークも体験しました。まだこれからあるかもしれません。当初は、誰もが命に関心を強くもっていました。今は当初よりも亡くなる方がずっと多いにも拘わらず、亡くなる方のことが、軽く扱われているようにも見えます。もはやインフルエンザでの死者とそんなに違うものではないだろう、とでも考えられているのか、関心は生命問題よりも、経済の方に向けられている模様です。
医療体制も政治により大きな影響を受けますが、経済はもう完全に政治の分野です。経済がよろしくないとなると、人々の不満が、政治家により強くぶつけられてくるのが実情です。人の命を助けるためには経済を我慢しよう、という空気は、生まれてこなくなります。ですから経済への不満や不安があれば、全部政治家に対する非難として現れてきます。
政治家は、コロナ対策のほかにも、することは山ほどあります。ですから、コロナ禍だけが問題なのではないのですが、とにかく何かがうまくいかないとなると、「政治が悪い」との罵声が飛んできます。政治家は、マスコミから隠れたところで、様々な人と折り合いをつけ、組織と関係を続けながら、できるかぎり最善の道を見出そうと努力しているはずなのですが、そうした労苦は報道されないし、人々も関心をもちません。それよりも、ちょっとした失言や、過去の関わりなどが分かりやすいのでマスコミも取り上げるし、人々もそれを理由として、「政治が悪い」と一斉に叫びます。
政治家の疲労は、それでも、そうしたところにのみあるのではないと思います。一般に私たちは、嫌な相手とは話をしなくても済む場合があります。街角で人の行動に感情が揺らいでも、一人ひとりに文句を言いに行くような人はいません。いじめられるのはうれしくありませんが、何を言っても理解してもらえそうにないような人、つまり言葉の通じない相手と、無理に付き合わなくてもよい場合があります。けれども政治家は、それができません。言葉の通じない相手の党の人間と、また話したくもないマスコミと、話をしないでは済まされません。拒否したら、また攻撃を受けるでしょう。
そもそもそうした、言葉の通じない相手と議論する、というのが、政治家の仕事のようなものではないでしょうか。ですから、支援者だけが集まる講演会で、つい心を許して、調子に乗った失言が飛び出すように私は思うのです。
自分が政治家だったら、酷い言葉を投げかけられて、とても平気ではいりません。私の愛する人が政治家で、理解されず世間から誤解されてボロカスに言われていたら、とても堪えられないでしょう。
◆悪口
マスコミも世間も、つまり一般の私たちもまた、悪口を言うのが好きです。自分が悪口を言われたら、また誰かにそいつの悪口を言って、はけ口にします。人から悪口を言われないようなステイタスのある人は、いつも取り巻きにちやほやされています。すると先ほどの支援者だけの集まる場の政治家のように、自分の語ることこそ正論であるとして、政治の悪を叩くのは当然だ、と思い込むようにもなりかねません。
ただ、近所の人の悪口を言うのは憚るのが普通です。人の悪口を簡単に言うものではない、という道徳があり、そういう人は、むしろよくない人間に見えてしまうことは分かっているのです。ですから、政治など公的な人の悪口を言うようにしています。何故なら、政治の悪口だけは、言っても構わないような風潮が、現にあるからです。しかも、その背景には、もっと質の悪いものがあります。それは、悪口を言う当人が、自分が正義であるかのように思い込んでしまう、ということです。
政治家に限りません。医師や教師、警察官なども、稀に不祥事が報道されたとたん、それみたことか、とたちまち攻撃の対象になります。こうした、強い信頼を必要とする職業ですから、わずかなミスが許せないのでしょう。一人の犯罪が、全員の悪であるかのように糾弾することになりがちです。マスコミの声に合わせて、シュプレヒコールが始まるのです。「十字架につけろ」とでも叫ぶように。
マスコミは、不思議と、牧師や僧侶の不祥事については、政治に対するようには糾弾しませんでした。困りましたね、というかのように、テレビのコメンテーターたちも、組織全体を悪のようには呼びません。但し、ここのところ社会悪があれば、宗教団体であっても、きちんと調査をすべきだという空気が濃くなっています。そして、「宗教二世」などという問題点を、今度は激しく取り上げるようにもなっていますが、これは寺の息子に仏教を教えるのはけしからん、というようなレベルのものの言い方をしている場合すら垣間見られ、もっと宗教や信仰ということについて理解のある人のコメントや議論がないと、世間の正義漢が、ますます宗教など要らないと合唱するようになりかねません。世界的に見ても、信仰をもたない人のほうが少ないと言えるのに、日本では信仰をもつ人のほうが異常視される不思議さですら、認識されていないようです。
それとも、牧師という職は、やはりどこかで世間的に尊敬すべき存在だ、という捉え方があるのでしょうか。そして、牧師の下に教会を形成するキリスト者たちにも、自分が尊敬されたいという暗黙の思いが、どこかにあるのでしょうか。私にはそれがどうだ、と断定するような権利も、知恵もありません。でも無関心ではいられない事情ではないかという気がします。
◆イエス・キリストの十字架
ここに、疲れ果てた人がいます。口ではもてはやされることもありましたが、そんな人々が、今や敵となりました。調子のいいことばかり言っておきながら、いざ世の中の雰囲気がはっきりすると、人々は一斉にその人を糾弾し始めました。真摯に身を粉にして今日まできたのに、濡れ衣のような罪状を突きつけられ、死刑判決が下りました。しかもたちまち執行されるという、現代の軍法会議のような仕打ちでした。
その処刑方法は、十字形の杭に磔にして、じわじわと苦しめて殺すという、晒し刑でした。権力に逆らったら、そして世間に逆らったらどうなるのか、見せしめにさせられるという有様でした。夜っぴて裁判を受け、朝のうちに処刑場に引き回されて行きます。手足に釘を打たれ、その人が固定された杭が、高く起こされました。
教会に通う人々は、この方の前に、跪きます。神を礼拝するという言い方をしますが、この方を通さずして神を知ることは、ありません。そう、イエスという名の、かつて確実にいた人が、救い主であるキリストである、と信じる者たちが、教会に集います。しかも、このイエス・キリストに、自分がどのように結びついているか、自分とキリストとの関係はどうか、そこがその人にとり最大の鍵となるポイントです。イエス・キリストと出会い、イエス・キリストとの強いつながりがあってこそ、キリスト者は礼拝を続けるのです。これは断言してよいでしょう。そうでなければ、それは偽物だ、と。
神を礼拝するとき、人間の側の状態というものが、気になる人がいると思います。しかし、それは本質的なものではありません。自分が喜んでいるから礼拝しよう、悲しいから礼拝できない、そんな区別は一切ありません。神は神であり、私たちの状態に左右されるようなことはありませんし、私たちも態度を変える理由は何ひとつありません。
つまり、人間の側の都合で、神を変えようとするような真似は、しないのです。神は変わることなく、人を愛します。私を愛してくださっています。聖書の言葉と出会った経験から、私はそのことを手放すことができません。喜んでいる人も、悲しんでいる人も、神はどちらも大切にして下さいます。
まさか、そんなことがあるだろうか、とお思いの人がいらっしゃいますか。でも、もしそうでないならば、どうしてイエス・キリストは十字架に架かったのでしょうか。私もあなたも、神をまだ知らないときに、すでにその十字架があったのです。あなたがその十字架を、きっと見出してくれるはずだ、と神は信じて、待っていた、そう思うことはできないでしょうか。
十字架の上で、キリストはこう言った、と記録されています。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」(34)これは、何か記者が意図してか、イエスの口から出た語をそのまま書き留めたようなもので、原語をカタカナに置き換えたものとなっています。福音書は、その意味もちゃんと紹介してくれます。「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」(34)という意味なのだそうです。
私たちが神と敬い礼拝しているお方が、死を前にして、この断末魔のような絶望の言葉を吐くとは、どういうことでしょう。そう思って、これをただの人間の苦しみだ、と言ってのける研究者がいます。いや、そうこぼすほどに、神なるイエスが、とことん人間になった証拠なのだ、と考える人もいます。後者は信仰深いようでもありますが、大きく見ると、どちらもあまり変わらないようなことを言っているようにも見えます。どちらも、人間が安易に考えつく案であり、そんな思いつき程度ですべてが読み取れるほど、神の謎は薄っぺらいものではないと私には思えてならないのです。もしそれが本当に絶望でしかないならば、今の私たちにも、何の希望も喜びも、残らないことでしょう。けれども、事実私たちには、希望も喜びも、なくなっているわけではないのです。
◆叫び
34:三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」という意味である。
改めて聖書を引用します。先ほどお伝えした内容です。しかし、意外な言葉がここにあることに気づかされます。「イエスは大声で叫ばれた」というのです。
刑場は、ゴルゴタといったそうですが、そこに至るまで、鞭打たれ、歩き回され、その時罪人が担ぐはずの杭すら担げなかったような書き方がなされています。人々の「十字架につけろ」の声を浴びて精神的にもまいっていたはずです。すでに疲労困憊のイエスです。さらに、釘打たれた激痛に加えて、吊されると、呼吸機能に支障が出ます。足台があったとも言われていますが、それでも体重が自らの内臓を蝕み、逃れようのない苦しみの中で、息も絶え絶えとなっており、まともに声すら出せなかったことでしょう。瀕死のイエスのどこに、大声で叫ぶ力があったというのでしょうか。
けれども、イエスは確かに「叫んだ」のです。「叫んだ」のですから、その声が遠くまで「届いた」のです。いま、この私には聞こえています。ここまで届いています。あなたにも、届いていますか。これはデリケートな問題です。そこに叫びがあっても、届く相手と、届かない相手とがいるからです。バスの中に置き去りにされた幼い子どもの声が、悲しいことに誰にも聞こえなかったということもあります。助けられたというニュースもありますから、届くか届かないかは、命に関わることにもなることが分かります。
こんなにも苦しんでいるのです。アナウンサーの報道の向こうから、叫びが聞こえることがあると思います。こんなに辛いのです。新聞記事の向こうから、叫びが聞こえることがあると思うのです。聞く側が、聞く心をもっているか。想像力をもっているか。それにより、聞こえるか聞こえないかが変わります。イエスの叫びを、聞いたからこそ、後に私たちは、希望と喜びが、与えられることになったのです。
イエスは確かに叫びました。なりふり構わず、肉体の限界を超えて、叫びました。普通、大人は叫びません。聖書の世界でも、いい大人は外で走るような真似はしなかったと解説されることがあります。まして、叫ぶような、大人げないことは、しなかったでしょう。目の見えない人が、イエスに向けて救いを求めて必死で叫ぶとか、憎しみに狂った群衆がイエスを「十字架につけろ」と叫ぶとか、そうしたことのほかに、叫ぶ大人はいなかったのではないかと思います。
でも、あなたの心に届くように、イエスは叫んだのです。共に考えてくれ。「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」という問いに、あなたなら声を挙げてくれるはずだ。それは画一的な解答である必要はない。あなたが、このイエスの叫びを聞いて、あなたとイエスとの関係の内で、レスポンスすればよいだけのことだ。それが、イエスがあなたと共にいる、ということなのだ……。
少なくとも、私には、そのように聞こえました。イエスの叫びが、聞こえました。私には、神の思し召しがすべて分かるようなことはありません。すべてどころか、毛一本ほどにも分かっていないのだと思います。けれども、イエスの声が聞こえます。私はそれに魂でレスポンスします。レスポンスは「応答」という訳語が最も適切でしょうか。この語は、ラテン語系の語源からすると「約束を返す」というようなことを表しているそうです。これに可能の意味の語尾「able」を付けたとき、レスポンシビリティという言葉ができます。「責任」という意味の英語です。「応答できること」「約束を返せること」にこそ、「責任」の本質があると考えているところが、日本語からは窺い知れぬものとなります。
イエスの声に対して、それが聞こえたならば、私たちは応答する責任を与えられたことになります。与えられたタラントを用いるか隠しておくかが問われた喩えがありましたが、私たちは、神の声を受けて、どんな責任を覚えるか、祈って知りたいと願います。
◆神の子だった
37:しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。
もう一度、息を、あるいは霊を手放すときに、イエスは大声を出しています。この叫びもまた、キリスト者は確かに聞きました。愛する人の最期の言葉がいつまでもリフレインされて響くように、イエスの叫びもまた、キリスト者の心にはいつまでも、いつでも、響いていることでしょう。
39:イエスに向かって立っていた百人隊長は、このように息を引き取られたのを見て、「まことに、この人は神の子だった」と言った。
終わりに、この場面に注目していこうと思います。百人隊長は、それなりの地位にはありますが、決して組織の上層部というわけではありません。それでも、会社では部長くらいのポストであるとするならば、一番現場をよく知っている人だとも言えます。イエスの死を間近で目撃した証人です。ローマ軍の組織の一員ですから、ユダヤ教のことをどれくらい知っていたかは分かりません。しかし、何かしら感じたのでしょう。思わず呟きます。「まことに、この人は神の子だった」と。
ローマ軍の一員であるならば、「神の子」の称号は、ローマ皇帝にこそ付されるものでした。ひとつ間違えれば、反逆罪にも問われかねない呟きです。素直な信徒は、これをもちろん、そのままの意味で受け取ります。ローマ軍の一員ですら、イエスの死を見て、これは「神の子」に違いない、と恐れ入るような思いがしたのだ、などというように。
しかしこの文は「神の子だったのか?」と疑問文の可能性もあるという人がいます。しょせんローマの一軍人です。神もメシアも分からないような異邦人が、職務を果たすために死を看取っただけで、神やイエスを信じるようなことがあるはずがない、というのです。また、イエスの真意を、すべてユダヤ人を差し置いて、見抜くようなこともあるまい、と。パウロのような人も、手紙の中でえらく皮肉なことを書いていることがありますから、言葉を額面通りに受け取るべきではない場合があることは、もちろんその通りです。
ただ、これはどちらの解釈が正しいのか、という問い方をすることには、私は賛成しません。聖書の記事も、これは正しくてこれは間違い、というような分類をするようなことはしてはならない、と考えます。それができる人がいたら、神よりも偉いということになるでしょう。問題は、私が、そしてあなたが、どのようにこの言葉を受け止めるか、それが問われている、というところにあると思うのです。聖書の記述の意味はこれこれであり、他の解釈は間違っている、などというように読むことをすべきではない、というのが私の信仰理解です。聖書を命の書として読むという前提においては、そういうのは根本的に間違っている、と言いたい。それでは聖書の言葉がひとを生かす働きを否定してしまうことになるからです。
聖書の言葉は、ひとを生かすはたらきをなします。まずここにいる読者としての私が、聖書の言葉により生かされたという、動かせない事実、証拠を提示することで、そのはたらきが、私を通して始まります。これが「証し」というものです。こういう次元の出来事、それが「信仰」という語がもたらすものであるのです。
◆神は、いる
ですから、聖書を科学的な教科書のように扱うことを、私は求めません。教義めいたものを掲げて、聖書の意味はこうこうこうです、と冷静に解説するようなことを、私は決してしません。理屈で納得して教会に行くようになったのではないからです。そのように聖書を料理でもするかのように切り分けたり加工したりすることは、神やイエス・キリストを、その程度のものだと上から見下ろすような真似は、したくないのです。
振り返りましょう。イエスは十字架において、叫びました。それは方程式の解のように、誰の目にも一通りに現れるものではありません。それをどう受け止めるか、それは、あなた次第です。いま、あなたが疲れているとします。理不尽な世の中に、憤りや辛さを感じているとします。でも、それより遙か以前に、イエスの十字架とその叫びは、確かにありました。すでにあったのです。それは、あなたが信頼するならば、確かにあったのです。
そんなに決めつけても、よいのでしょうか。ええ、大胆に言いましょう。よいのです。イエスの声が届くスピードは、人により異なります。悲しむ人、義に飢え渇く人には、速く届きます。イエスの言葉は、謂れなく苦しむ人のところには、すぐにでも届きます。
神は存在するか。そんな問いが、昔から出されてきました。けれどもユダヤ世界では、そんな問いはそもそもありえず、神はいる前提で、すべての物事が考えられていたようです。哲学的問いが文明に混じってきたときに、西欧の知恵者たちが、問わざるをえなくなったという事情があるらしいのです。しかし、その問い方自体に私は疑問を覚えます。有るか無いか、それを定めることが、それほど必要なものとは思えないのです。
神は、います。イエスの言葉が届いたあなたのために、確かにいます。
ただ、そのような疲れをいま覚えていない人にとっては神はいないのか、という心配があるかもしれません。いまそのような助けとなる神を感じていない、という方のためにもお話しします。あなたがもし、いま神を必要としていなくても、神はあなたを必要としているからです。あなたが神を必要とするようになることを、神はご存じだからです。あなたこそ、やがて神を見上げるその人だ、神を頼る人だ、そう神が見ていることだろう、と私は理解しています。
自分勝手な言い方かもしれませんが、繰り返し言います。神は、あなたのために、いるのだ、と。苦しみの極限の中で、命果てる時の絶望の言葉を、あなたのために叫んだイエスが、確かにいたのです。
イエスの死を見守っていた女たちがいたことを、聖書の記者は記録しています。こんな残酷な有様を、よくぞ見ていられたと思います。女たちにも、当然イエスの叫びは聞こえていたことでしょう。叫びを聞いたこの女たちは、それ以前からすでにイエスに従い、仕えていましたが、この後も、とことん仕えることとなったはずです。それは、その誰もが、神は自分のためにいるのだ、と知ったからではないかと思います。
神は、あなたのために、いる。あなたと、共にいる。だから、あなたの重荷を共に背負ってくださいます。あなたの疲れを癒してくださいます。弱ったあなたに、力を与えます。聖書の言葉が、胸に響くならば、あなたはもうただの孤独の中にいることは、できなくなるのです。