エステル記に覚える憤り
2022年9月11日
いまの時代、いまの場所で見る風景が、世界の基準であるわけではない。まして、この自分の考え方が適切であるなどという保証は、どこにもないことも分かっている。だが、どうにも不快に感じる聖書の物語がある。
そもそも聖書という名前がよくない。そこに人間が描かれている限り、人間がいかに汚く愚かであるか、が伝わってくるようにしかできていないのかもしれない。
改めて開いた、エステル記。ユダヤ民族にとっては、いまだに祭りの根拠になっている、おめでたい物語である。なにしろユダヤ人への迫害者に対して、大逆転を果たしたのだから。また、旧約聖書続編と呼ばれる、カトリックが聖書として採用している文書集にも、ギリシア語バージョンが入っており、こちらは物語に出てくる書簡や祈りの内容が詳しく掲載されたり、境遇背景が異なったりして、初めてお読みになったら驚かれることだと思う。モルデカイやエステルの心境が、もっとリアルに伝わってくるように私は感じる。
まず、ペルシアが当時如何に栄えていたにせよ、半年にわたり宴会を開くというのはどうだか、私には想像できない。さらに付け加えられた庭園での宴会が七日間というのはちょいとしょぼいが、会場の描写はなかなかのものである。この宴会は、来賓のためではなく、地元の庶民たちにも祝宴に招こうという試みであったという。
しかし法に従い、飲むことは強いられなかった。王が宮廷のすべての役人に、人々がめいめいの好みのままにできるように命じていたからである。(1:7)
このように、一気飲みの強制のような真似はしなかったというのは、非常に理性的であるかと思いきや、この後七日目に、ふとした戯れ言のつもりか知らないが、王は王妃ワシュティを客たちの前に連れ出そうと強制する。その美しさを人々に見せびらかしたかったものと思われる。王妃ワシュティからすれば、卑しい者も混じるような宴席に、見世物のように駆り出されることを拒んだということなのかもしれないとすると、気持ちは分からないでもない。また、ワシュティは女たちのための酒宴を催していたために、男たちの場にひとり入ることに、抵抗があったということも想像される。実情は分からないが。
だが、問題の核心はここからである。王はこれに対して怒りに燃えた。周囲の賢人たちに相談するのは習慣であったようだが、この周囲の者たちが、ソロモンの息子の友人たちのように、妙な判断をする。――このままだと、女たちは、夫の言うことを聞かなくてよいと思うようになるだろう。男たちは侮辱され腹立たしく思うに違いない。だからワシュティを王妃の地位から引きずり下ろし、新しい美女を王妃とすればよい。国中の女たちは夫を敬うようになるに違いない。
エステルがユダヤ民族を救うことになるための布石である。それだけでこの前提は肯定されるものなのかもしれない。モルデカイが民族絶滅の危機を招いたことも、その信念を貫くところが是とされるのかもしれない。ユダヤ人の大逆転物語のために必要な設定であるのは事実だろう。だが、この男臭い論理が、腐ったもののように思えてしまうのは、現代人の偏見なのだろうか。王の周囲にいた相談役がすべて男ばかりであったことは間違いない。
その男たちがつくったこの論理に対して、きっとフェミニストたちは怒るか、呆れるかしているだろうとは思う。だが、男の牧師たちも神学者たちも、さして取り上げることがないように思う。少なくとも私は、ここを説教で取り上げて、男たちの愚かさを指摘するのを聞いたことはない。エステルは勇気があるだの、モルデカイの頑固な信仰がすばらしいだの、ハマンはけしからんだの、正義は勝つだの、そういうところばかりが取り上げられていやしないだろうか。
繰り返すが、現代人の価値観ですべてをはかることは、必ずしも真理ではない。かつての時代の文化の中で生きた人々のもっていた価値観を貶めるようなことは、厳に慎まなければならない。だが、私たちはいまここに生きている。聖書を「適用」するという言葉は好きではないが、いまここにいる自分の生き方に影響があるからこそ、聖書が生きた言葉、神の言葉としていまなお通用することも確かである。
教会が、この男たちの考えを正面切って批判するような説教を、私は殆ど聞いたことがない。議論があったことも、記憶にない。もちろん私がただ無知であるというだけであるだろうとは思う。しかし、もしも本当にこれを不問にしていたのだとすれば、その問題性に気づいていないということを意味しないだろうか。
教会員は女性が多い。役員は男性だけ。食事の支度は女性だけがして、その間男性は歓談している。そうした教会が、もしもまだあったとしたら、まさにそういう事態があるという証拠になりはしないかと案ずる。しかし、ここからいまの男たちも、男優位の当たり前の空気をのほほんと受け流しているのだ、ということに気づかされるのならば、聖書はここで私たちのために新たな力をもたらすということに、なるのではないか。また、そうしなければならないのではないか。そして、私も、その男の一人である。