【メッセージ】自分の正しさ

2022年8月21日

(ルカ16:15-31,イザヤ51:1-2)

あなたがたは、人に自分の正しさを見せびらかすが、 神はあなたがたの心をご存じである。(ルカ16:15)
 
◆正義の味方
 
「正義のヒーロー」という言葉だと、今の子どもたちにも通じるでしょうか。先日テレビ放映が中止になった「竜とそばかすの姫」では、「ジャスティン」という集団が登場していました。音の響きからお分かりでしょう。「ジャスティス」、すなわち「正義」を掲げる集団です。映画をご存じない方には通じない表現をお許しください。「ジャスティス」は、仮想世界Uで自警団をつくり、正義の名のもとに、竜を追い続けます。高圧的で、暴力的でもあり、見る者すべてを不愉快にさせるように描かれてありました。ただ他人を従わせたいだけに「正義」の名を持ちだしているようにしか見えず、正義が行き過ぎたらどういうことになるのか、そこがこの映画を味わうための、重要な鍵であるようにも思えました。
 
「正義のヒーロー」は――どうして「ヒロイン」ではないのか、ということはた別問題とさせてください――、それでも子どもたちにとり、大切な憧れです。かつてそうした子どもたちだった大人のために、「シン・ゴジラ」の成功をきっかけに、「シン・」と付け加えた、「シン・ウルトラマン」や「シン・仮面ライダー」といったものが、どんどん出てきます。
 
少し前までは、「正義の味方」という言い方のほうが普通でした。意味は「正義のヒーロー」と同じようなものだろうと思いますが、「味方」のほうが、「正義」というものが別に存在するような感覚が強いような気もします。さる情報筋によると、「正義の味方」という言葉が使われ始めたのは、「月光仮面」からだそうです。さすがに私は最初のテレビシリーズは知らないのですが、歌は有名でした。後にアニメにもなりました。
 
「月光仮面」の作者は川内康範氏。「正義の味方」の「正義」そのものは、神や仏のようなものでしかあるまい、と思い、人間にできることは、せいぜいそれの手助けをすること、味方になることくらいだろう、と考えたとのことです。
 
15:あなたがたは、人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたがたの心をご存じである。人々の間で尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ。
 
「あなたがた」というのは、直前にイエスの話を笑った「ファリサイ派の人々」のことです。これはイエスが、ファリサイ派の人々にぶつけた言葉で、「自分の正しさ」を見せびらかしている、とストレートに批判したことが分かります。先ほどの例でいうと、それは「行き過ぎた正義」であったのでしょう。
 
しかし、ファリサイ派であれ律法学者であれ、大祭司やサドカイ派であれ、「ジャスティン」のように、誰をも不愉快にさせる存在ではないかもしれません。とりあえず、彼らの言うことに従っておれば、平穏に暮らせるわけです。わざわざそれに反旗を翻したイエスは、後に殺されることになります。だから、嫌気がさしてもじっと忍耐していなければなりませんでした。いえ、本当に嫌気がさしていたかどうか、それさえも怪しいと思いませんか。人間、多少不愉快なことがあっても、自分に言い聞かせて、「これでいいのだ」と思うようにしているのが、普通であるような気がします。
 
◆ラザロと金持ちの物語
 
そこで、今日の話の中心にある、不思議な物語が始まります。ラザロという貧しい人がいました。贅沢な暮らしをしている金持ちの家の前で、貧困と病に苛まれた人でした。ラザロが死ぬと、天使によって、アブラハムの懐に連れて行かれました。その後、金持ちも死にますが、金持ちはアブラハムの懐ではなく、陰府にいます。私たちの感覚では「地獄」とでも想像すれば、意味は理解できます。金持ちは、炎の中に置かれたのでした。
 
金持ちは、目を上げます。するとアブラハムとラザロが遠くに見えました。アブラハムよ、憐れんでください、そのラザロをこちらに寄越して、冷たい水を漏ってこさせてください。金持ちは必死で叫びます。しかし、アブラハムの態度のほうがよほど冷たいのででした。お前は生前、良いことばかりだったではないか。それに対してこのラザロは、生前、悪いことだらけだった。だからこちらの世界では、おまえが苦しみ、ラザロが慰められるのだ。そしてこの境には「大きな淵」があり、どうあがいても、それを越えることはできないのだ、と言います。
 
一種の因果応報のようにも見えますが、イエスは、これをやはり架空の物語として話しているはずです。誰かのことを、つまりここでは、ファリサイ派のことを描こうとしているはずです。もちろん、それは金持ちのことでした。でも、ただこれだけ言ったところでは、効果がありません。イエスの話は、ここからが真骨頂となります。
 
金持ちは、自分のことは諦めます。そこで人助けを考えます。自分の実家にラザロを遣わして、五人の兄弟に対して、自分のような間違いを犯さないように警告を与えてほしい、と願うのです。殊勝な心がけです。しかし、アブラハムは、やはり冷たい態度でした。その兄弟たちには、モーセと預言者があるではないか、それに聴けばよいのだ、と言うのです。モーセは律法、預言者はいまでいう預言書を表しているはずですから、これは要するに、旧約聖書がちゃんとあるから、それを読めばよいのだ、と突き放すのです。
 
金持ちは、まだ諦めません。死んだラザロが蘇って現れたのだったら、これは大ごとだ、とその言うことを聞いて、悔い改めるはずだから、ラザロを遣わしてください、と粘ります。ところがまたしても、アブラハムは冷たく返します。旧約聖書をよく読まないのであれば、たとえ死人が復活しても、聞き入れるようなことはしない、と一蹴するのでした。
 
◆アブラハム
 
ところで、ここには珍しく、アブラハムが登場します。イエスのたとえ話では、何らかの主人が出てきて、神またはイエスを表す、ということが多々あります。ここでも、このアブラハムは、神かイエスかを表している、ということは、薄々感づきますが、やはり、何故ここはアブラハムなのか、という点が気になります。もちろん私の貧しい理解からですが、想像できたことをお話ししてみたいと思います。
 
そもそもアブラハムとは誰か。神はアダムに始まる人類を創造して、イスラエルにつながる系譜を旧約聖書に遺した形になっていますが、アブラハムは、イスラエルにとり、特別な存在でした。「諸国民の父」というような意味合いをもつ名でありながら、実質それは、イスラエルの父なのです。そこで「信仰の父」のように見なされています。神の言葉に従い旅をして、カナンの地に至ります。主なる神と特別な契約を結び、その子イサク、孫のヤコブに至ると、そのヤコブが後に「イスラエル」と改名することとなり、イスラエル民族が根拠づけられる、ということになりました。
 
アブラハムは、間違いなく、イスラエルという民族が発祥するための、エポックとなった人物です。それは伝説に包まれているかもしれません。しかし、やけに詳しくその生涯と出来事が、旧約聖書には記録されており、非常にリアリティを感じます。アブラハムの信仰は、パウロも大きく取り上げ、ルターの宗教改革の中核にも置かれました。そうでなくても、イスラエルの人にとり、アブラハムという人物は、もうたとえようもないほどに、偉大な民族の原点だと見なされていることは、間違いありません。
 
イスラエルの歴史は、アダムから始まり、後にモーセという、偉大な律法の始祖を登場させ、ダビデ王の頃に最高の輝きをもちます。しかし、創世記にある、このアブラハムは、神と民族との関係において、最大のポイントを示していると考えられます。
 
このラザロの話は、寓話のようなものです。イエスは、お話として、ファリサイ派の人々が父祖と仰ぐアブラハムを置きました。もちろん、神がラザロを処遇した、というように描いても、話の筋道はさほど変わらなかったはずです。けれども、いきなり神を持ち出すと、冒涜云々の感情を呼ぶかもしれません。人間味あるアブラハム、しかもファリサイ派の人々が間違いなく最大の尊敬を払う人物を登場させることで、イスラエルの信仰の神髄のところを舞台にしていることは伝わります。イエスは、このアブラハムを持ち出すことによって、このラザロの話が、重大な点に触れていることを、彼らに伝えることができただろうと思われます。
 
すると、私たちは、このアブラハムの姿を、イエス・キリストの姿に重ねて見るように促されていることを、感じないでしょうか。ファリサイ派の人々に、イエスが死後の世界を司っているかのような話し方をしても、反抗されるに違いなく、この逸話を伝えることを妨げてしまうことになったでしょう。だからアブラハムなのですが、本当は、イエスがこのようにするのだ、という点を言いたかったと思うのです。そのため、これを新約聖書でいま聞く私たちは、このアブラハムの姿を、イエス・キリストのこととして、受け止めて構わないと考えます。
 
つまり、イエスこそ、この救いの歴史の中で、アブラハムにも勝る、最大のエポックとなった人物である、ということです。キリスト者とは、この点に立つ者であるはずなのです。
 
◆ラザロと金持ち
 
さて、この寓話ですが、私は非常に不思議に思っていました。どうしてこの貧しい人は、ラザロなのだろう。まさか、ヨハネによる福音書で、親しくしていた家のラザロのことではないと思います。一度命を失いましたが、イエスが復活させた、あのラザロを思い起こしますけれども、殆ど共通点を探すことができません。偶々名前が同じであるだけでしょう。
 
どうしてこの貧しい人には、名前があって、名前で呼ばれているのでしょう。これが私の、不思議に思った点です。
 
名前があるという点では、ほかにも、バルティマイという盲人の例がありました。が、それは例外的な存在だと言われます。イエスが癒した病人になど、基本的に名前が聖書の中に記録されることはないわけです。まして、譬え話の中に、特別に名前を出す必要は、まずないはずです。ここでも、ある貧しい人が、と話をしても、何の違和感なく話が進められるでありましょうに、わざわざラザロという固有名詞が当てられています。
 
イエスの名に救いの力がある、などと、使徒言行録でも描かれていますが、名というのは体を表すともされ、神の御名というものを如何に尊重しているかは、その名をみだりに唱えてはならない、という十戒にも如実に表れていると言えるでしょう。人を名で呼ぶのも、聖書で神が時折大切にその人を扱っている証拠となります。しばしば神や天使は、名を二度呼ぶのですが。
 
「ラザロ」という言葉そのものは、「神は助く」というような意味をもつ言葉に由来するものだといいます。その意味もさることながら、ここで貧しいこの人が、その人固有の名前で呼ばれたということに、私は感動を覚えます。ほかの誰でもない、ラザロなのです。誰かと交換することのできない、唯一の個性をもつ人間、ラザロとして、イエスはこの不幸な人生を送った人を扱ったのです。
 
それは、いてもいなくてもよいような人ではありません。ずいぶんと不条理な場面に置き去りにされ、この世の不幸をひとり背負ったかのような経験をもつ人、あるいはまさにいま、そのような情況にある人のことです。その人も、名前をもっています。神に名前を呼ばれています。そのことを、確信したいと思うのです。
 
しかしまた、それほどの不幸の中に置かれたのではなくても、私は自身を、そこに見ます。神により、個人的に名を呼ばれた者として、それを自分自身のことだ、と感じることができた人は、幸いです。それも、自己愛や自意識過剰からではなく、この方に救われたのだ、という思いが全身を貫くような思いで感じている人です。ほかの誰でもない、この私がここにいるではないか、と気づく人は、幸いだと思います。聖書を読むとは、そういうことなのです。聖書の言葉が、自分自身というものを見出させてくれるのです。
 
他方、金持ちのほうはどうだったでしょうか。最後まで、この人は名前では呼ばれません。どこまでも、ただの「金持ち」なのです。
 
実はこの場面の直前に、新約聖書の譬でも第一級の難解さを有するものがありました。いわゆる「不正な管理人の譬」です。主人の金をごまかしていた管理人が、その正体を見破られたため、今後の生活のために、友だちをつくろうとします。そうして、主人からいろいろ生活に必要なものを借りていた人々のところを回り、借用証書を書き換えさせます。これを知った主人は、この管理人のやり方をほめた、というのです。不正の富に忠実であることがよかった、と評価をします。
 
これの解釈をどうするか、について何かをお話しするつもりは、いまはありません。ただこれは、ファリサイ派の人々に向けての話だったと思われます。今日お開きした直前の14節で、こんなことが起こっていました。
 
14:金に執着するファリサイ派の人々が、この一部始終を聞いて、イエスを嘲笑った。
 
「そこで、イエスは言われた」(15)と続いてくるわけです。金に執着すること、そこにあの難解な譬を読む大きなポイントがあると共に、イエスがこのラザロの話を始めたのも、その金が鍵である可能性は、十分にあります。ここで登場する、名もなき「金持ち」は、金に執着するファリサイ派の人々を描いているとみて、間違いないと思われます。
 
ファリサイ派の人々が、「人に自分の正しさを見せびらかす」者である、とイエスが攻撃しているのは、明らかです。そのような者は、もはや個人名で神から大切に扱われるようなこともないのです。ラザロは、自分が正しいと見せびらかすこととは、対極にある人物でした。出来物だらけで、貧しくて、金持ちの食卓から落ちる物すら、食べる機会がありませんでした。つまり、金持ちはラザロに憐れみの心を向けもせず、施しもしなかったのです。ファリサイ派の人々が軽蔑していた動物のひとつであろう、犬にさえ舐められていたというのは、人間扱いされていなかった、ということです。
 
同じルカの描くイエスは、6章で独自に、こうも言っていました。
 
24:しかし、富んでいる人々、あなたがたに災いあれ/あなたがたはもう慰めを受けている。
25:今食べ飽きている人々、あなたがたに災いあれ/あなたがたは飢えるようになる。/今笑っている人々、あなたがたに災いあれ/あなたがたは悲しみ泣くようになる。
 
◆イエス・キリストを見よ
 
「自分の正しさ」というのは、自分で自分を正しい、とすることです。「正しさ」を求めることそのものが、悪いはずはありません。そこで、旧約聖書の預言者イザヤが、「正しさ」とは何か、を求める人に対して告げている言葉も、思い起こしました。イザヤ書51章です。
 
1:聞け、義を追い求める者たちよ/主を探し求める者たちよ。/あなたがたが切り出されてきた岩に/掘り出された石切り場の穴に目を留めよ。
2:あなたがたの父アブラハムに/あなたがたを産んだサラに目を留めよ。/私は彼がただ一人であったとき呼び出し/祝福し、子孫を増やした。
 
「切り出されてきた岩」に目を留めるのだ、と言っています。石切場から石を切り出して、利用する。大理石をはじめ、美しい石は、様々な贅沢品としても、古くから用いられていたことでしょう。奴隷などの力を使って、遠方から運んでくることもあったことでしょう。ひとつだけ、実例を引用します。列王記上5章です。
 
29:ソロモンには、また、荷役が七万人、山で働く石切り工が八万人いた。……
31:王は、神殿の礎石とするために、大きな石、質の良い石を切り出すように命じた。
32:ソロモンの人夫やヒラムの人夫、それにビブロス人たちは石を切り出し、神殿建立のための木材と石材を整えた。
 
「切り出されてきた岩」は、切り出した石のほうではなくて、その石が先程まであった、その岩場のこでしょう。「掘り出された石切り場の穴」のことです。抽象的で意味を解しかねますが、すぐに説明がされています。それはアブラハムであり、その妻サラのことです。この夫婦が石切り場の穴であり、そこから現れた子孫が、石だということになります。つまり、イエスアブラハムの子孫、イスラエルの者たちが石であり、それはアブラハムから出たのだから、あのアブラハムを見よ、アブラハムの信仰とは何だったか考えよ、というふうに、イザヤは仕向けているのだろうと思います。
 
アブラハムの信仰に戻れ。イザヤがイスラエルの民に呼びかけたことは、いま新約の徒としてのキリスト者にとっては、もちろんアブラハムであってもよいのですが、端的に、イエス・キリストに戻れ、というふうに捉えるべきでしょう。正しさを求めるなら、義を求めるならば、イエス・キリストを見よ、これが私たちに求められていることだ、と受け止めましょう。
 
◆ラザロに身を置く人
 
「人に自分の正しさを見せびらかす」ファリサイ派の人々は、イエスの先の譬を嘲笑ったのでしたが、いまやイエスにより、ラザロよりさらに不幸な状態に追い込まれる金持ちに重ねられました。彼らの反応は、ルカは記しておりません。石でも飛んできそうな気がしますが、私たちはその事件の情況よりも、私たちがこの言葉を受ければよいわけです。そうだ、ざまあみろ、金持ちめ、ファリサイ派なんて、威張ってイエスに楯突いたものの、結局いつも言い負かされていただけじゃないか。どうかすると、クリスチャンの中には、そのようなことを言ったり、また言わないまでも、心の中でそう思っていたりする人が、いないとも限りません。いえ、私の見立てでは、内心かなりの人がそう思っているのではないか、とも思います。
 
実際、ラザロのように悲壮な思いで、日々暮らしているキリスト者もいるだろうと思います。キリスト者であるかないかに関わらず、帰って寝る場所がないとか、物理的な場所はあっても、精神的な居場所がないとか、様々な苦しい思いを抱えた人がいます。ヤングケアラーも深刻な問題ですし、貧困家庭と呼ぶに価する子どもがちっとも珍しくないという有様も、よく知られるようになりました。外へ出られないタイプの人もいるし、いじめで辛い憂鬱な毎日を送っている人もいることでしょう。最近では、宗教二世という言葉がありますから、教会に来ている子どもたちの中にも、これはいけないことだ、と思うようになることがあるかもしれません。キズがないわけではないのです。自分が苦しい生活状況になくても、誰かに対して恨みをもち続けてそれが消えない人もいると思います。これもまた、苦しいだろうと思います。
 
こうした人は、このイエスの語るストーリーに、自分はラザロだ、と涙を流すかもしれません。こんな人もいたのか、と、少しでも心を開いてくだされば幸いです。
 
他方、比較すると恵まれた生活をしている人も、多いことでしょう。私はかなり恵まれています。いえ、お金の余剰はありません。話すと長くなりますが、なんだかんだと、切羽詰まったときに、不思議と天使が必要なお金が入るようにしてくれて、その都度「助かった」という思いを懐き続けて、ここまで来ました。それでも、私はなんと幸せなのだろうと思っています。あまり具体的には申しません。そうでない人を傷つけることにもなりますから。
 
言いたいことは、そんな私が、自分はラザロだ、と重ねるときに、躊躇してしまう、ということです。こんな私がラザロだなんて、申し訳ない気持ちなるのです。いくら猫に舐められるのがうれしいとは言っても、このラザロとは比べものにならないはずです。
 
◆金持ちと同じだと気づくなら
 
そもそも、ラザロが自分だ、などというのは、ただの思い込みに過ぎなかったのではないか。私は気づかされました。それは、自分がそこまで貧乏で病に冒されていない、という意味ではありません。もっと積極的に、私は、この金持ちと、同じことをしているということに、気づいてしまったのです。
 
落ち着いてみれば、私はこの金持ちと同じなのです。「気の毒に」などと、世の不幸な人の報道を、一応気遣ってはいます。でも、口先だけなのです。実際にその人を助けることを、しているわけではありません。義捐金を出したところで、何十万円も送ることなどしていませんから、何の役にも立たなかったことでしょう。けれども出したからには、自分は協力したぞ、ちゃんと寄付したからな、と、まるで免罪符のようにそれを利用することができます。自分の良心を満足させ、ひとにもちょっと自慢できるとでも思っているのです。
 
街を行けば、あの人は決まりを守っていないとか、迷惑行為だとか思って、義憤を懐きます。それが自分を正義の人間のように定めることになります。こんな自分は、きっと神から見て、あんなのとは違う善い人間だと思われるだろう、などと計算高いこともしています。「この徴税人のような者でないことを感謝します」(ルカ18:11)とでも祈っているようなものです。
 
16:律法と預言者は、ヨハネの時までである。それ以来、神の国の福音が告げ知らされ、誰もが激しく攻め入っている。
 
今日の引用した初めのところに、謎のような言葉がありました。神の国に「誰もが激しく攻め入っている」とは、何なのでしょう。「律法と預言者」というのは、私たちの思い描く「旧約聖書」のことですから、洗礼者ヨハネの時までで旧約聖書だけの力は一旦区切りをつけることができる、ということのようです。それから後は、もちろんイエス・キリストの登場する時代です。イエス・キリストが現れてからは、神の国、あるいはそれを「神の支配」と読み替えても意味は変わらないとされていますが、「神の支配」は、多くの人がそこに押し寄せている、ということなのだろうと思います。イエスは「神の国」をもたらすために世に来た、とも考えられますから、着実にそれは前進しているのであり、貧しい人、虐げられた人、差別されて困惑している人、そしてマタイによる福音書の山上の説教で挙げられたような、悲しむ人、義に飢え渇く人、憐れみ深い人などが、神の国にどんどん入ってきている、イエスを信じるようになってきている、そんな姿が、ここから思い浮かべられるような気がしてならないのです。
 
神の国に押し寄せる、その中に、私はいるのでしょうか。いま、求めているのでしょうか。おそらく私は現実には、あの金持ちと同じような考え方をしていたのかもしれません。それはアブラハム、つまりイエスとの間に越えられない「大きな淵」(26)があることを恐れ戦くのでなければならない、ということになります。「たとえ誰かが死者の中から復活しても」(31)というイエスの釘刺す言葉がありましたが、どうか本当にその復活を信じる信仰をください、という祈りを、私も、そして多分にあなたも、もう一度悔い改めつつ、献げなければならないのではないでしょうか。そう問いたいと思います。
 
能天気に、自分がいつも正義の側、褒められる側にいるかのように思い込むのは、やめましょう。
 
「至らない者で」とか「不信仰な者で」とかいう、口先だけの偽の謙遜や反省のポーズは、やめましょう。
 
社会であれ、教会であれ、周囲の声や、権威をもって語る者の声に、ただ合わせていくのはやめましょう。
 
自分と神との関係、つながりを、大切にしましょう。そのためには、聖書から、聖書のみから、神の言葉を聴きましょう。いえ、それは簡単なことです。聖書を読むことです。そして声を聴いたら、神を見上げるのです。「自分の正しさ」を決めるのは、自分ではありません。神が、神こそが、ひとを正しいとするのです。罪を痛感するそのひとを、イエス・キリストの十字架の死により、罪なしとするのです。今まで自分の正しさを示そうとばかりしていたとしても、神は、そこから方向転換をしてイエス・キリストを見上げるようになった私たちの心を、分かってくださるはずです。神との関係において、あなたは確かですか。確かでありたいですか。ラザロの物語を、あなたはどうお読みになりましたか。私は、ひとつのスポットライトを、そこに当てることをしました。次は、どうぞあなたが、その舞台に立ってください。



沈黙の声にもどります       トップページにもどります