みんなとおかみ
2022年8月12日
いまとなっては非常に失礼で差別的なジョークであるが、昔、こんなのがあった。世界各地の乗客を乗せた船が、沈没しそうになった。救命道具の数が限られているため、船長は、なんとかうまく言って、乗客の男たちに、海へ飛び込ませようとする。「飛び込むことは規則だから」とか「飛び込めばヒーローですよ」とか言うと、それぞれある国の男が飛び込んで消えていく。そこに日本人がいた。船長は何と言ったか。「みんな、飛び込んでますよ」
エスカレータを歩かないように。この告知は、そこそこ知られてきたように思うが、それでも急ぎ降りる人が後を絶たないことは、何度か指摘した。一人が縫うように歩けば、我も我も、と続いていくのを見て、私は、別の意味での危険をひしひしと感じている、ということを、そのときお話しした。いまは「戦争反対」とか「平和を」とか口々に言っている人々が、いずれ一斉に、「みんなと同じように」なる可能性が極めて高いことが分かる、と言ったのだ。それは、キリスト教徒であるとかないとかには関係しない、とも。
その「みんなが」という発想をバックアップするのは、「お上」のお達しである。「お国」の命となれば、それが唯一の正義となるからである。そして互いに「みんな」一緒だもんね、と安心する。権威のもとにただ「同じ」になることが、最も正しいことだという結論を互いに口にして、仲間意識をもつのだ。この点についてもまた、キリスト教徒云々が特権をもつようなことはない。それは、太平洋戦争のときの歴史を繙けば簡単に分かる。
非常事態宣言がお上から下されることにより、日本全国は「沈黙の春」を迎えた。つい2年前のことである。行動制限が厳しく「自粛」しろと命じられ、殆ど誰もが、おとなしく「従った」。いやいやだったとも言えるだろう。生活の破綻を嘆く人もいたし、命を絶った人もいた。ワクチンの有無により意味合いは違うが、あの時には、一日あたりの新規感染者数は300人余りであった。日本全国での数字である。
いま、そのときの650倍以上の人が、毎日「新規感染者」に数え入れられている。非常事態宣言以前に、日本全体で死者数が一日に二桁を数えたことがなかったが、いまは250人を超えているという点にも、注目はされない。医療機関はもう各地で破綻している。「実際病院は開いているではないか」と呑気なことを仰る方もいるが、どうか医療現場と保健業務の現場を直接認識戴きたい。発熱外来がどんなことになっているか、どんな状態を2年半強いられてきて、その結果がいまどうなっているか、認識して戴きたい。特にテレビで放言気味に正論らしいことを口先だけで語り、多大な悪影響を与えている方々には、必ず現場に来て戴きたい。そのため感染症とは無関係の患者の命が失われてもいること、救急医療が成立していないことなどを、確認戴きたい。あなたの隣の医院がなんとか動いていても、他の地域で多く、悲惨な情況になっているという想像力を、わずかでよいので働かせて戴きたい。
だが、行動制限を設けない、と「お上」が言っている。ワクチンと経済がその理由であろう。この「お上のお墨付き」に、かなり多くの人々が、自己判断を中止して、すっかり身を任せているのではないか。問いたいのは、そこである。
報道の仕方にも問題がある。「先週と比べて減少しました」の言葉は、その「お上」のお達しを、データとして根拠づける材料となってしまう。減少という言葉で、ずいぶんと楽観的に気持ちにさせるからである。減少などと言いながらも、福岡県でも一万人を超える新規感染者がいる。またさらに深刻なことには、本当の問題は、減少したという数字が、「検査数の減少」に基づくものであろうという点にある。要するに、各地で、これ以上の検査がもうできないから、数が高止まりしている可能性があるのである。こうなると、検査をせずに、実は感染している、従って10日間の経過観察を経ずして、世に出ていて、「感染者数」にカウントされていない人数が、どれほどいるか、計り知れない、という実態があることになる。さらに、診療機関が休日である故に、月曜日の発表数が下がることは広く知られているが、水曜日や木曜日にも各地で休診日があることや、このいわゆる盆休みの間にそれが大きく影響し、検査数そのものが大幅に減少するという事情を、報道の側で十分に告知しなければならないが、それはどうなっているだろうか。それを「減少しました」としか言わないのであれば、人々を、誤った安心感へと導くことになる。むしろ、もしも、この盆休み期間に大きく減少した数字が発表されなかったとしたら、これは、再び一斉に検査が開始される8月後半が恐ろしいことになるという危険性を、予め伝えておかなければならないのではないだろうか。
少なくとも、「お上」のお達しには簡単になびいていく、という体質が、現実にあるのだ、ということは、十分警戒しておかなければなるまい。政府が悪いとか何とか批判が多いではないか、とお思いかもしれないが、そういうのをしばしば「ガス抜き」と言う。政府が悪いと言うことで、庶民は、自分が正しい、という自負心を満足させることができる。言うだけで終わりとなり、いざとなれば力業で簡単に寄せられる。そういうことを、私たちは幾度も幾度も見て、体験してきたはずだ。そしてこれもまた、キリスト教徒を例外とはしないのである。否、むしろ正義の問題について彼らは、自分を神の側に置きやすい故に、さらに危険である、とも言うことができる。私は現に、それを日々見聞きしている。
そうしたことについては、常々必要な視点を提供している。私の言うことは「うざい」かもしれないが、それが塩の役割ではあるだろうと考えている。「みんな」を根拠にすることは、責任を免れようとする人間の本能にも関係するだろう。そして、自らが加害者となっていくことに対する想像力を欠くことは、とてつもなく恐ろしいことであると気づく必要があることを、繰り返し伝えたいと思っている。聖書は、そのためにもまた、キリスト教徒は読んでいるはずである。