今週、生きていける

2022年8月2日

夏期講習が始まっている。ふだんの日曜日は仕事に出ないことにしているが、夏期講習となると、それを避けることは現実的に無理である。しかし理解して戴いているので、午後の礼拝があるというなら、その時間帯には授業を入れない、という配慮を受けている。
 
ところが、最近は、午前のリモート礼拝に命を受けている。困ったが、その午前の礼拝も、その週のうちには、数日内に、編集された説教映像が見られるようにしてくれる。それも感謝だと待つことにした。
 
ところが、日曜日の夜遅く帰宅した私は、教会からのメールを知った。なんと、編集映像ができた、というのである。日曜日の夜にそれを受けるのは初めてであった。なんとうれしいことだろう。主日のうちに、説教が聞けるではないか。
 
早速食い入るようにそれを再生した。初めのほうで、ここからアブラハムの物語を礼拝説教で扱う、との宣言があった。その後で、「アブラハムの物語」と呼ばれるが、それは正確ではないと思っている、と牧師は言った。
 
私は緊張した。ここは耳を強く傾ける場面だ、と身を乗り出した。牧師は語った。これは、「アブラハムとサラの物語」と呼ぶべきだ、と。つまりそれは、「夫婦の物語」なのだ、と告げた。
 
そのとおりだ。私はショックを受けた。「アブラハムとサラの物語」などと呼んだことが、私にはなかったからである。
 
ジェンダーにまつわる議論には、それなりに参加していたつもりだった。強気のフェミニズムには、全身で同意できる自信はなかったが、理解はしようと努めていた。だが、そんなふうに「理解ある」と自認していた自分の矜持のようなものが、残らず吹っ飛んだのだった。
 
ああ、自分はだめだ。何も分かっちゃいない。こんなところですら、サラのことを大切に見る眼差しを、なしですませているなんて。口先だけの、愚か者である自分を見せつけられた。また出直しだ、と項垂れた。
 
当たり前だと思っていたことの中に、とてつもない偏見がある場合がある。これは差別については特に近年重く主張されている。自分は差別主義者ではない、と豪語する人こそ、実はそれなのだ、という指摘である。私もまた、ぼんくらなのだ、ということを噛みしめたのだった。
 
説教は、語る者が神と出会い、神から受けた言葉を語る。そのことによって、神の言葉が出来事、すなわち現実となるのである。「私は」と責任を背負って語り、「神は」と神の言動を、会衆の目の当たりに示す。
 
だが私がとことんつまらないことばかり言っていたのではない、ということも分かった。この説教の最後のところに置かれた言葉によって、慰められた。聖書の物語は、私たちの人生にも続いているのだ、というのだ。これには私は思わず「そうです!」と叫んだ。
 
信仰とは何か。神が新しくしようとする世界へと旅に出ることだ。私たちの生き方が、信仰そのものであり、聖書の物語をいまここから新たに描いていくのである。なんと力強く、慰めに満ちた、希望の満ちたメッセージであろうか。
 
ストイックで体力も使い果たし、さらには誹謗中傷を浴びている医療従事者に比べれば、なんということもないけれども、私にとっては激務が続く。だが、これからの一週間は、間違いなく、この命の言葉で歩んで行ける、と力を受けたのであった。



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