神を礼拝すること

2022年7月31日

それは、ひとつの儀式である。でも、何故儀式をするのか。ひとは、自分だけを頼りには生きていけないからである。神のことを「主」と呼ぶのは、昔の文化かもしれないが、奴隷が主人を呼ぶのと同様である。主人の命令には、従わねばならない。そうしなければ、自分が生きていくことはできない。自分の役割は、そこにあるだけである。もちろん、すべてが主人の命令の通りにしか行動できないとか、考えることができないとかいうわけではない。日常の大部分は、各自の自由の領域にある。プログラム通りにしか動かないのは、いわばコンピュータである。自分で判断することが許されていないロボットである。
 
これを勘違いすると、なにもかも教団の命ずるままに従う、ロボットとなってしまう。しかも、自らロボットとなるように仕向けられ、いわば自分では自由だと錯覚しながら、教団の言いなりに利用される、ということになる。
 
統一協会について、取り沙汰されている。ここぞとばかりに、正義の鉄槌を振るう人がいる。発言力のある人が、勝手なことを言っている場合もある。その本質が、政治的団体であるという点を読み間違えると、見当違いの思い込みで判断することになるから、注意が必要である。せめて、組織の歴史を適切に把握してから、考えていくようにしなければならない。
 
キリスト教会のほうでは、あれとは違うのだから、と自負しているところも多い。だが幾度か触れたように、外から見れば、どこがどう違うのかは、分からないようになっている。さらに言えば、そればかりか、政治的本質ではない、という部分を除いては、実はさほど変わらない構造があるかもしれない、と見るべきである。教会もまた、組織だからである。そして、神を礼拝している、と言いながら、実は人間の思いがコントロールしているだけ、ということも、ままあるからである。人間の知恵がまずあって、それを正当化するために、聖書を用いる。それは、統一協会の構造と、何も違わないのである。尤も、政治と宗教が問題に上がることを、政治家だけでなく、マスコミも封じ込めにかかっているから、興味本位のこの宗教的関心は、ただ宗教への拒否感だけを、世に遺していくことになるかもしれない。どちらにせよ、教会がうまくアピールしたとしても、無意味である可能性が高いように思われる。
 
礼拝のことに戻ろう。たとえ人間がどんな知恵を以て事に当たろうとしても、神は何を求めているのか、人間ではない主人の意向は何か、ここに目を注ぐところに、礼拝のベースがあるのではないか。それは、部分的に、人間自身が理解できる範囲での、神というものである。だが、それは部分的に過ぎない。神のかたちにつくられた、それなりに尊厳をもつ人間の魂は、その殆どのケースにおいて、愚かではあるけれども、神の光に照らされ、神と出会い、神からのものを受けた魂は、神の前にいる己れを自覚すると、神を礼拝するとはこういうことなのだ、という思いが、全身を貫く。
 
それは、同じようにすべての人を照らすその光を知ることでもある。教会に出席しているとか、教会で偉い地位に就いているとか、そんな表向きのことには惑わされない。教会組織の内であろうと外であろうと、神の光や神の言葉に生かされている人は、いたり、いなかったりする。
 
よく、出会う人の中にキリストを見出す、などと言う。キリストは、そこかしこにいる、という見方は、注意して扱わなければならないけれども、それは基本的に間違っていないだろうと思う。ファリサイ派の集まりには気をつけよと言ったキリストは、世の人々の中に、神に救われる人をたくさん見出した。また、そこに出て行った。福音書を見る限り、会堂での礼拝の場は、ひとつの儀式の場であっただけのようにも見える。神を礼拝するというのは、イエスにとり、他の様々な機会における、神との交わりであったし、神の言葉を語ることであったようである。
 
神を礼拝する。そのことを心に置く、主日でありたい。



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