夏を制する者は、受験を制す!
2022年7月25日
ありふれたキャッチフレーズは、受験産業の誘い文句にもなっているが、あながち嘘を言っているわけでもない。学校のペースとは独立に、自分で学習を企画するのであるから、それの良し悪しは、差がつく原因となるであろうことは明白である。
自分で企画する、と言った。だが、生まれて初めて受験に挑む子どもたちにとって、それが適切にできるかどうかは、非常に難しい。よって、受験産業が、それを手助けしましょう、ということになる。
それで生活をさせてもらっている私としては、それが悪いなどとは口が裂けても言えない。だが、万人にとりそれしかないのか、と言われたら、もちろんそんなことはない。子どもたちは、一人ひとり違う。他人との交わりが苦手なタイプもあるし、自分で時間を管理できるタイプの子も、いるにはいる。対人間という次元において、教師を素直に受け入れて、教師の思うような効果を示す生徒もいれば、緊張が続かず、授業をじっと聞いていられないタイプの生徒もいる。集団授業が合っているのか、個人指導に向いているのか、機器を使いこなすのが適しているのか、人それぞれであろう。また、科目や目的によっても、それらを使い分けることができる、恵まれた環境にある人は、それもよいだろう。
この夏に懸念されるのは、夏休み直前になり、急速に拡大した、新型コロナウイルス感染症である。子どもたちは、比較的軽症であるとはいえ、基礎疾患次第では重症化することがあるため、舐めてかかってはいけない。ワクチン接種を子どもたちも受けていることが多いとなっても、それが感染をさせないようなことは、全くない。
そう、ワクチンというものについて、思い込みによる誤解も、多々あるような気がする。もはや素人がここで説明をしても仕方がないが、確率的な防御であり、重症化の阻止でもあると共に、キャリアとなることは、普通にありうるのである。従って、子どもに接する親、とくに母親であろうか、兄弟であろうか、家庭内でまた感染が拡大してゆく。今回、感染力が強い変種であるといわれ、この子どもたちを通じての拡大が、急激な感染者増加の大きな要因であるらしい。
夏期講習が始まったが、一旦は、よほどのことがなければお断りしていたリモート中継を、しないではいられなくなった。感染者も出るし、濃厚接触者も増えてくる。しかし、学校から出港停止などの命令が出ていなかったならば、これまでのところ、概ね集団授業に参加している。よくこれだけ出てこられるものだと驚くほどである。幸い、クラスターはいまのところ発生していないが、こればかりは、いつどうなるか分からない。消毒についても、淡々と繰り返すばかりだが、もしかすると2年前の頃よりも、緊張感がないように見受けられる。そう、最初は、ずいぶんと厳戒態勢がとられていたものだ。それが、ワクチン接種が理由なのだろうか、感染者数の爆発的な増加にも拘わらず、誰もが平気で生活しているようにも見える。テレビで、そうした盛り上がりを次々と報道するのは、やめてほしいと思う。心理的に、「いいんだ」を拡散しているのが報道機関である。
こういう事情であるから、明日、夏期講習がどうなるか、も見えない情況なのである。短い梅雨が、産業にどう影響を与えるのかも、まだ一般には見えてこないし、今からまた豪雨が襲わないという保証もない。その中で、長い猛暑が予想され、換気とマスクなどから、健康についての懸念も、去ることがない。
そういうわけで、自己管理ができないが故に、受験産業を頼っている顧客に対して、何ができるのか、もちろんひとかどの塾は、その先を読んでいる。最初の緊急事態宣言のときにも、よくぞ信頼を失わなかったものだと、関係者の努力には敬服する。
どういう事態になっても、時は平等に過ぎていく。その物理的な時間の中で、実は一人ひとりの感じる時間は、それぞれ異なるということが知られている。ある人にとってはなにげない時間が、別の人にとっては、かけがえのない重大なエポックである、ということがある。その重大な時間に、気づいて過ごしている場合もあれば、その時には気づかずして、後から、そうだったんだ、と気づくということもある。
私たちは、淡々と歩いていく。ただ、どちらを向いて歩いているか、は大切なポイントである。制するべき時は夏だけではないけれども、この夏に、そんな「時」の重みを覚え、あるいはそんな「時」の存在を信じて、背筋を伸ばしてみるのは、如何だろうか。
神の国の合格を願う受験生も、同じである。