(申命記15:7-11, マタイ5:3,6:12)
この国から貧しい者がいなくなることはないであろう。それゆえ、わたしはあなたに命じる。この国に住む同胞のうち、生活に苦しむ貧しい者に手を大きく開きなさい。(申命記15:11)
◆愛は惜しみなく
有島武郎など、今の若い人は手に取ることがあるのでしょうか。「一房の葡萄」は子ども向けとはいえ、罪の意識を問う作品ですし、「カインの末裔」は、正に旧約聖書の物語をモチーフにしています。「罪」という問題は有島武郎にとり大きなテーマであったと思われますが、若くして出会ったキリスト教を、やがて数年後には棄ててしまいます。文学論については素人は言及を避けますが、キリスト教の説く「愛」に真っ向から挑んだ評論に、「惜みなく愛は奪う」というものがあります。不倫(密通?)の愛人と心中する数年前に書かれたものですが、徹底的に、なまっちょろい概念的な「愛」を粉砕します。
有島は、棄教したとはいえ、この本でも、キリスト教には尋常ならぬ関心を示しています。しかし、「個性」という言葉で表すものを尊重するあまり、確かに聖書の「与える愛」に対抗するものとして、「奪う愛」をこそ主張していると言えます。「惜みなく愛は奪う」というこの評論の題名は、トルストイが唱えたという「愛は惜しみなく与う」考え方を否定的に意識したものとされています。少なくとも、表現の上では、この言葉に有島も認めるところがあると言います。けれど、愛の本体は、やはり奪うものだ、と激しく挑むのです。
思うに「愛」という言葉に、どういう意味を重ねるか、によって、言い様は如何様にも変わるのではないか、と私などは思います。どちらが正しいとか間違っているとかいうのではなく、私たちが「愛」という概念に、何を適用し、何を求めるか、そうしたレベルの問題に帰着するのではないかと思うのです。そもそも日本語における「愛」が、キリスト教の「愛」とはずいぶん違うものであったことからしても、有島の捉え方のほうが、日本語の「愛」の姿に近いようにも見えるからです。
トルストイは、後半生キリスト教に深く感じ入り、彼なりの信仰溢れる物語を書いています。その「愛」は、聖書の教える愛に基づくものであったことでしょう。一方有島は、最初は聖書から「愛」を知りながらも、聖書そのものを批判するような見方になっていくとき、その「愛」も、現実にはそんな綺麗事ではないではないか、という気持ちにどんどん傾いていってしまったようにも見えます。
哲学もそうですが、同じ言葉を用いながら対話をするとき、どうしてもその言葉の意味を、それぞれが違うように用いることから、話が噛み合わず、また結論が大いに違ってくるということがしばしばです。20世紀は、そうした「言葉」についての探究が深まった時代でした。それは、聖書を読む私たちにも関わることです。いったい、聖書の「言葉」をどのように理解するとよいのか。信仰が異なるという前に、「言葉」の理解が異なるのではないか、と一歩引いて考えるようにしてみたい、と常々思っています。
◆貸したが最後
本日は申命記15章の規定を開きました。どこまで本当にこれが法律として実行できたのか、そうした懸念は別に置いておき、私たちはイスラエルの歴史と文化に根ざしたこれらの規定を、まずは学びたいと願います。
7:あなたの神、主があなたに与えられた地のどこかの町で、あなたの兄弟の一人が貧しいなら、あなたは、その貧しい兄弟に対して心を閉ざし、手をこまぬいていてはならない。
8:彼に向かって手を大きく広げ、必要なものを十分に貸し与えなさい。
同胞は兄弟だとしています。しかし貧しい人が出てくるのは仕方がないことなのでしょう。その貧しい兄弟のことを、「心を閉ざし」てはならない、つまり、見て見ぬ振りをするようなことのないように。助け合う社会を想定しているとするのは、楽観的かもしれませんが、確かにそうしたことが述べられています。「手をこまぬいて」、つまり腕組みをして、ただ傍観するようなことのないように。
「手を大きく広げ」というのは、さあこの胸に飛び込んで来なさい、頼りにしなさい、というふうなことなのでしょう。そして、生きるために必要なものについては、十分に貸し与えるべきだと命じています。
貸し与えるのですね。これは与えることとは違います。貸すのです。貸すのだったら、また返してもらえるのだから、そうそう惜しまずに貸せばよい、と思う人がいるかもしれません。
「本を貸すバカ借りるバカ」と、誰かが言ったとか。経験がおありの方が多いと思います。本を貸すと、殆どの場合、戻ってきません。いえ、逆にあなたが本を借りたままで、返していない、というものはありませんか。
何故なのでしょうね。本については「貸して」と頼むけれども、返すつもりがないのか、あるいは返すことを忘れてしまうのか、うやむやになり、借りたことさえ意識から消えるのか、本を律儀に返そうとする社会常識というのが、あまりないような気がするのですが、どうでしょう。もちろん、人によりますでしょう。一概に決めつけてはいけないと思います。が、私もその両方の側の経験があり、借りたままになっているのは、「盗んだんだな」と言われたら、確かにそうなのかもしれません。いろいろな事情で、返しに行けないという場合もあるので、ひとのことを責めるつもりはないのですけれども。
そんなふうに、「貸し与える」というのも、一応「貸す」という名目があったとしても、事実上、返すことは求めていない、期待していない、ということはありうるのでしょう。「手を大きく広げ、必要なものを十分に貸し与えなさい」(8)というのは、たぶん、もう与えよ、に限りなく近いのではないかと受け止めてみます。
◆手を大きく広げて
「手を大きく広げ」よ、というところで、先日それに泣いていた人の話をします。映画「シン・ウルトラマン」を見たのです。妻が、どうしても観たい、と言って、結婚記念日のためのランチを食べに行く日に、「シン・ウルトラマン」を朝一番に観ることになったのです。
彼女はウルトラマンをかつて見ていた、というわけではありません。ただ、次男が特に好きでしたので、いわゆる平成のウルトラマンシリーズはテレビで見ることがありました。怪獣にも生きる権利がある、とか、人類こそが地球を壊しているのではないか、とか、深い問題意識が潜む場合もありましたが、魅力的な主題歌もたくさんありました。
ご存じのように、ウルトラマンシリーズは、元々円谷プロが生み出したヒット作で、円谷一族は皆カトリック教会の信徒でした。そのため、怪獣の名前や設定などに、しばしば聖書のキャラクターが登場します。ゴモラ・ペテロ・バラバ・ベリアルなど豊かですが、ゴルゴダ(本当は「ゴルゴタ」)星まで登場します。ウルトラ兄弟が十字架にはりつけにされるのです。
そうした背景を知ることなしに、妻はスクリーンを注視しておりました。まだ始まって間もない頃に、確か禍威獣(怪獣)ネロンガだったと思います(違っていたらご教示下さい)が、電気を食って変電所を破壊していたために、現れたウルトラマンに高圧電流をお見舞いします。ウルトラマンは、それを防御もしますが、何よりもそれ以上の破壊と人々を守らなければなりません。そこで、次に胸でその電撃を受け止めるのです。ウルトラマンは両手を大きく広げ、まともに電撃を受け続けました。
妻は、この姿に、涙をぼろぼろ零していた、と後から聞かされました。「だって、あんなふうに、イエス様は、いろいろな攻撃から、私たちを守っているんだ、と思わされたのよ。両手を広げて、十字架の姿で……」
そこまで私は気づいていなかったので、この言葉に、改めてぐっときました。
但し、ここで登場した「大きく手を広げ」という言葉は、イエスの十字架とつながるものではありません。むしろ、自分が貸し渋ることをやめて開放的になることを意味しますから、別の例を思い出しました。それは、京都の教会の牧師が、時折説教の中で語る例話でした。
それは「手放しの信仰」と言って、親に負ぶわれた子は、親を信仰するから、強くしがみついているばかりではない、手を放しても、親が背負ってくれることを信頼している、というものでした。信仰は、自分でしがみつくのではなくて、背負われている安心感の中にいることなのだ、という話でした。
◆負債免除の年が近づくと
ここで奇妙な注意書きが挟まってきます。
9:あなたは、心によこしまなことを抱き、「七年目の負債免除の年が近づいた」と言って貧しい同胞に物惜しみをし、彼に何も与えないことのないよう気をつけなさい。彼があなたのことで主に訴えると、あなたは罪に問われることになる。
旧約聖書の出エジプト記とレビ記の中に、七年目には土地を休ませるべし、という規定がありました。当然、人に対する安息日と並行した規定です。ところが、これが申命記15章になると、借金の話に進展します。今日お開きした箇所の、直前にある規定です。
1:あなたは、七年の終わりごとに負債を免除しなければならない。
いわば徳政令のように、七年目には、負債はチャラになる、というのです。同胞が負っている負債は、七年目には、免除しなければならない、とするのです。果たして現実に、このようなことが行われたのかどうか、それは分かりません。しかしただの夢物語としてここに遺っているのではないような気もします。安息日について、ゴリゴリのユダヤ人は今なお、徹底した規定を設け、守っています。当時もきっと守っていたのでしょう。
だとしたら、これを口実に、規定の七年目がもうすぐだから、いまは貸せないね、と渋ってはいけないのだ、というわけです。計算高い人間は、きっとそう言うでしょうね。私は間違いなくその一人です。瞬時に損得の計算をしますから、どんなに貧しい人が願い出て、同情を買おうとしたとしても、みすみす返済免除となる金を「貸す」というような名目で渡すなど、できるものですか。
しかし、ここには珍しく罰則規定が含まれています。貸さないのですよ、と主に訴えられたら、これは貸さなかった私の罪となる、というのです。律法は、罰則が書かれている箇所も確かにありますが、全く書かれておらず、ただ「〜しなさい」だけが並ぶようなところもあります。ここは守られないことがお見通しなようで、ケチな私は、訴えられてしまうことになりそうです。
訴えられたというケースとして、私たちはイエス・キリストにひとつ注目する必要があります。イエスは、訴えられて、磔にされたのです。しかも、貸し渋ったようなことではなく、むしろ与えに与え、与えすぎたために、罪に問われたのでした。
いえ、私はもう少し踏み込みます。「問われた」という受け身表現をとるのは何故でしょう。主体を曖昧にするからです。では、主体は誰でしょう。「イエスを罪に問うた」のは誰でしょう。ユダヤ人のこと? 祭司長やサドカイ派など? 群衆? 確かにそうかもしれません。けれども、罪という問題を、誰かほかの人のものだとして刃を向けているような私たち、いえ、この私がイエスを罪へと追い詰めたのではないかと思うのです。計算高く、常に自己弁護ばかり考えていて、悪いのは他人のほうだ、という前提からのみ物事を考える、この私が、イエスを罪に定めたのです。そのようなことを、感じてくださる方が、皆さまの中には、きっといると思います。
経済的貧困であったのはその同胞ですが、貸し渋る私は、別の意味での貧しさを有して居るようです。どうにも、心が貧しいのです。
◆貧しさと罪
新約聖書のマタイによる福音書には、イエスの教えが編集されて集められたようなコーナーがあります。「山上の説教」と呼ばれる部分で、5章から7章までたっぷりと並べられています。その殆ど冒頭の5章の始めの部分、いえ、イエスが口を開いたその最初のものとして、あの有名な言葉があります。
5:3 心の貧しい人々は、幸いである/天の国はその人たちのものである。
文頭に「幸い」という言葉が八度並ぶ、見事な構成の箇所です。ルカにもこれに相当する部分がありますが、「貧しい人々は、幸いである/神の国はあなたがたのものである」(6:20)となっています。「神」と「天」は、マタイが「神」という語を避ける傾向にあり、「天」と言い換えるためと思われますので、さしたる違いには数えません。しかし、ルカが端的に「貧しい人々」と言っているのに対して、マタイは「心の貧しい人々」と、言葉を加えています。恐らく「加えた」という順番でよいだろう、と研究がなされていますが、どちらが先であれ、マタイがここに「心の」を入れたことは、解釈の上でもいろいろ取り沙汰されることになります。
実はこの訳そのものにも意見があるのです。というのは、「心の」と日本語で言ってしまうと、また独特のニュアンスが伴うのですが、原語の構成は「霊に」のような恰好になっているからです。「貧しい」という形容詞に定冠詞が付いて、名詞を形作る文法から丁寧に当てはめても、これは「霊に貧しい人々」であることは間違いないでしょう。貸し渋る私の精神状態は、一種の「心の貧しさ」であることも確かですが、神より受けた「霊に貧しい者」であることを暴露することになりました。あのイエス・キリストにより罪を赦され、命を与えられたはずの私が、神の霊に背くような損得勘定で、人の知恵を用いようと考えるのですから、「霊に貧しい」人間であることが、露骨に分かる形となりました。
マタイによる福音書に踏み込んだため、もうひとつ、同じこの山上の説教から言葉を引いてみることにします。
6:12 わたしたちの負い目を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/赦しましたように。
これも有名な箇所です。ルカ11:4でも「私たちの罪をお赦しください。/私たちも自分に負い目のある人を/皆赦しますから」と、若干の違いはありますが、中身はそう大きく違うものではありません。どちらも「負い目のある人」と訳されている後半のところが、ひとつの名詞であるか動詞を含む形であるか、も、重箱の隅を突くようなものかもしれません。しかし前半で、赦してくれと頼むのは、マタイでは「負い目」であり、ルカでは「罪」となっていて、これは明らかに違います。
研究されているところによると、ルカが、どちらかというとユダヤ人ではない人たちに、罪と赦しという点を強く伝えて神の救いを受けるように求めているのに対して、マタイは、基本的にユダヤ人に対して、旧約聖書の成就という姿としてのイエス・キリストを示したいと考えています。ルカは、はっきりと「罪」の問題として打ち出しましたが、マタイにとっては負い目という、律法的な語を表に用いるべきだと考えたのかもしれません。
この「負い目」は、日本語としては精神的な響きを含むものですが、端的に言って「借金」です。「負債」としてもよいでしょう。ドイツ語ではしばしば、この二つは同一の語で表現するのだそうです。マタイも、「負い目」で十分にそれが「罪」であるとして伝わることを認知していたと思われます。
心に覚える「負い目」は、現実に私が不利な状態にある証拠である「負債」でもありました。またそれは、神の前には厳しい「罪」だと認識されていることを確認しました。どうも他人に拙い言動をしたのかな、と責められるような気持ちがしたときには、そこに「罪」があるのだということを、ごまかすことはできなくなりました。
その罪ある私に向けて、イエスは両手を広げて待ち受けていました。ここへ飛び込め、とも言っていましたし、その罪を凡ゆる攻撃から護ろうとしていたことも、感じ取りました。
◆良い言葉
申命記に戻りましょう。貸し渋る私に対して、惜しむなというのが、神の命令でした。そうでないと訴えられてしまうぞ、というのが先の、いわば消極的な言い渡しでしたが、今度は少し違います。
10:彼に惜しみなく与えなさい。与えるときに惜しんではならない。そのことで、あなたの神、主は、あなたのすべての働きとあなたのすべての手の業を祝福してくださる。
罰則ではありません。褒められるというのです。神はあなたを祝福する、というのです。
少しだけ道を外れます。たとえばマタイ14:19に、このような「祝福」があります。
群衆には草の上に座るようにお命じになった。そして、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで祝福し、パンを裂いて弟子たちにお渡しになり、弟子たちはそれを群衆に配った。
口語訳では「天を仰いでそれを祝福し」だったのですが、「それを」は原語にはありません。そこで新しい訳にあるように「天を仰いで祝福し」が元の言葉に最も近いのです。ところがこのままだと、やはりパンと魚を祝福したように読み込んでしまいます。それでよかったのでしょうか。ひとつ前の新共同訳では、「賛美の祈りを唱え」としていました。これは大胆な訳です。意味を汲んでいます。つまり、ここで祝福している対象は、パンや魚だというよりは、神であるのです。しかし「神を祝福し」という日本語は、どうしても似合いません。それで、神に対してのその気持ちは「賛美の祈りを唱え」とつくっていったと思われます。
この「祝福する」という語は、成り立ちからすると、「良い言葉を言う」のような形になっています。人から神に向けて「良い言葉を言う」のですから、これは普通「賛美」とか「祈り」とかいうものです。神が人に向けて言うならば、そうは言わず、「祝福」となるでしょう。
日本語だと双方向で使えない語が、どちらにも使える語としてここにありました。私が貧しい同胞に、惜しみなく与えるとき、そのことについて、神が私に良い言葉を投げかけてくださるというのです。「祝福」という、分かったような分からないような表現を、一旦、基本に戻してみましょう。神が私に「良い言葉を与える」のです。
私たちは、神から何を与えられるのが幸福でしょうか。神からの恵みでしょうか。恵みを受けるには、教会に行くというところでしょうか。では、そもそもキリスト者は、どうして毎週教会に行くのでしょうか。神を礼拝するためです。その礼拝の中では、説教があります。どうして説教があるのでしょうか。
説教は、神の言葉が語られる場であり、時です。礼拝で私たちは神を崇め、神に従う思いを新たにするでしょう。しかし説教という言葉の波が、私たちに次々と投げかけられてきます。基本的にそれを聴くだけ、受けるだけです。私たちは神の言葉を与えられます。神の言葉が、神からの恵みです。神からの祝福となります。それが良い言葉です。一週間の疲れも悩みも、その言葉により励まされて、また新たな歩みの中へと進んでいくのです。
◆いるのかいないのか
ところで、私たちが祝福されるのはよいことなのですが、気がかりなことがあります。直前の箇所では、こんなことが告げられていました。
あなたの神、主が相続地としてあなたに所有させる地で、主は必ずあなたを祝福されるから、あなたの中に貧しい者は一人もいなくなるであろう。(15:4)
ありがたいことです。主は必ず、私たちを祝福する、良い言葉で生かして下さる、と言うのです。しかし、今日お開きした箇所の結びでは、次のように書かれています。
11:この地から貧しい者がいなくなることはないので、私はあなたに命じる。この地に住むあなたの同胞、苦しむ者、貧しい者にあなたの手を大きく広げなさい。
今度は、貧しい者がいなくなることはない、と言っています。こんなに近くで、正反対のことが言われると、私たちは戸惑います。まさか、最初のところでは、神の声に必ず聞き従うのだ、と但し書きのようなものがあることにより、実は民は聞き従わなかったから、その言葉は果たせず、貧しい者がいなくなることはない、と釘を刺した、とでも理解すればよいのでしょうか。それとも、信仰の道を歩めば貧しくなることはないというのが理想だが、現実はそうはいかず、貧しい者が絶えることはないのです、といったことを示唆しているのでしょうか。
どちらも、なんだか「いかにも」の説明になります。話の流れというものがありますから、「貧しい者がいなくなる」というのは、他の国民に対して、イスラエルの民が祝福されるのだ、という言い方の中でのことであり、「貧しい者がいなくなることはない」というのは、福祉や扶助の態度を忘れてはいけない、という脈絡を含んでいるのかもしれません。
けれども、場所と時間において、これらの描写は違った背景を想定しているようにも見えます。一人もいなくなるのは「主が相続地としてあなたに所有させる地」においてでした。ずいぶん先のことのようです。しかし、貧しい者がいなくなることはないのは、「この地から」でした。時間的には、「この地」がいまここのことを言っていることになるでしょう。
そうです。いまここの地では、ひとはきっと、私のように「心が貧しい」のです。それは負債を赦してくださいという祈りにあるように、「罪」を抱えています。罪をもたない人は、ひとりもいないのです。罪人がいまこの地でいなくなることはない、私は、そのように指摘されたような気がしてなりません。
確かに、イエス・キリストの言葉と死が、ひとの罪を赦したこと、罪の証書が十字架につけられて無効となったことを、私たちは信じています。自分がその恩恵に与り、「罪なし」という裁きを与えられることを、喜んでいます。しかし、それは私が何をしても罪から免除されている、というようなことを意味することはないでしょう。この地上で、ひとは罪を生きています。今日も利己主義がまかり通り、ひとを殺して、あるいは見棄てて、ぬくぬくと生きています。正義を主張しているようで、実はただの無理解な自分を露呈し、ひとを傷つけて自分を誇っているような者でしかありません。
私たちは、この地の傷ついた人、虐げられた人たちに、大きく手を広げることを求められています。イエスが、両手を広げたままで、そうした人々を迎え続けている姿を見上げ、私たちも、人々に対して、できる限りの慈しみを以て、手を広げて迎え入れるように、促されているように思われてなりません。それは、「傷ついた人・虐げられた人」だから、ではありません。正にこの自分が、その人を「傷つけた」のであり、「虐げた」のです。そこのところに気づくならば、私たちが大きく手を広げているのは、自分の手柄ではなく、自分自身が、イエスに手を大きく広げられているというだけのことなのだ、ということも、身に染みて感じられてくるでしょう。血まみれの手で、いまも、いましばらくの間も。