空白の30年間

2022年7月19日

偶々テレビで、久しぶりに統一協会について語る有田芳生氏を見た。かつて社会問題化したときには、この人の命懸けの解説が、適切な判断がなされるために、貢献していたのだが、久しぶりだというのは、その後、テレビで同様に統一協会問題で解説をするという機会が、殆どなかったように見受けられるからだ。
 
つまり、そのような解説は、もはや視聴率に影響しない話題となり、マスコミが取り上げなくなったからである。だから、かつては統一協会問題は、キリスト教会でも大いに議論されたものだったし、いわゆる「救出」をどうするかを話すこと、祈ることは、幅広く行われていた。中には重荷を負って現実的にその活動をしたところもあるが、今度は逆洗脳だ、と訴えられるようなこともあったと記憶している。自分は自由意志でやっている、という人を抑圧することには、法的にも問題があったのだ。
 
有田芳生氏は番組で、「空白の30年間」という言葉を、ひとつのキーワードのように繰り返した。マスコミが、統一協会問題を全く振り返らなくなった期間は、もう少し短いかもしれないが、その年数はどうでもいいだろう。その間、政治と統一協会関連団体との関係は、当然のことのように続いていたことは、確実であった。
 
若い世代だと、統一協会がどういう団体であるか、あるいは、あったのか、全く知らないということが、当たり前であったのである。これだと、いまなお大学各地で続けられている、原理研究会にも、抵抗なく引き込まれることが日常的だということになる。いまはCARPという名を表に出して、ボランティア活動をするサークルのように宣伝している。
 
息子の大学の入学式の中で、名前こそ出さないが、明らかにこれをモデルにしているような、聖書を用いた学生勧誘へ注意を促すアニメがしばらく流されたというくらい、これはいまなお深刻な問題なのである。
 
だが、いまマスコミが再び賑わって、社会が一斉に、統一協会を叩きにかかった。叩くなら、これまで30年間、いくらでもチャンスがあったはずなのに、それをしなかった。有田芳生氏は、それを批判していた。また、政治との関係を知っていて大声で叫ぶことのできなかった自分をも、批判しているようにも見えた。同様に、そうした政治を許してきた国民への批判も、そこには確実に含まれていた。
 
私は、それで健全だと思った。というのは、私もまたそうであると共に、いま統一協会員やそれに準ずるものとして組織に入っている人々が、現実にいるからである。あるいは、いわゆる「二世」と言われる対象の人が、多々いるからである。脱会するとなると、精神的に殺されるくらいに、酷い扱いを受けることもあったはずである。生まれ育ったのがその環境であったら、それ以外の人生が、考えられないという人もいるはずである。
 
それは、我が子に対しても、もつ感情である。信仰を力ずくで強要したつもりはないが、生活環境としてそのように感じたとしても、十分おかしくはないと思っている。一定の枠の中で育てられたことには、違いがないであろう。「二世」としての心理は、やはり何かあるはずである。
 
よく、牧師家庭の子の話を聞く。一時は、そうした話が漏れることすらないように、管理抑圧されていたともいうが、牧師二世などとなると、時折、一時反発して教会から離れていた、というような証詞がある。しかしやはりまた戻ってきて、牧師になった、などと話すのである。それはたとえば、牧師が、自分の子ということで、厳しく支配するようにしがちである、という道筋に従っての、典型的なパターンである、ともいえる。信仰に戻ってきたから、そのような証詞となるのであるが、中には、信仰に戻らないという人も、少なくないだろうと思う。そこからは、そもそも証詞なるものが伝わってこないのであるから、いくらあるか知れないのである。
 
また戻ってきたのはよいが、こうした子の場合、やけに聖書の知識はあるし、教会用語も知っている故に、いくらでも「それらしい」話をつくることができる、という特徴があることにも、気をつけなければならない。賢くそれを見抜く、霊的な知恵を、私たちは求めなければならない。
 
話を元に戻そう。統一協会に限らないが、そうした組織との関係で、精神的に苦しんでいる人は多い。中には現実的に、経済的苦悩の中に置かれた人もかなりいると思われ、一刻も早い解決が必要なケースもあると思われる。キリスト教会は、この四半世紀にわたり、殆どそうした人々に、関心を払っていなかった。中には、まだ活動していたのか、と今回驚いているような声も見られた。政治との関係を見張っていなかったことも、私は苦しく思うが、精神的に苦しんでいる人を助けるとなると、専ら教会の役割であった、とすべきではないかと思うのだ。それを怠っていたことの痛みを、いまどれほどの教会や牧師などが、覚えているだろうか。
 
統一協会は悪い奴だ、との目でしか見ていないようなものの言い方をする人が、多々見られる。私はいつも言っているが、誰かを悪者にして一斉に叩くことがよくあるのは、そうすることで、自分が正しいというお墨付きをもらうためである場合が多い。悪者がいて、その悪口を皆で言う限り、皆は正義の側にいられるのである。これは、いじめの構図にもあてはまると思うが、統一協会が悪いと世で言われていることで、キリスト教会はそうではなく、真理を語り、愛に満ちています、とアピールするチャンスだ、などと勘違いをしているような様子も、感じられることがある。
 
傍から見れば、同じキリスト教のようにしか見えないのだ。そして、自分たちは正統的なキリスト教会だ、と自負しているそのあり方の中に、自分で意識しない暴力や、自己義認という最悪の要素が、しっかりと根づいていることに、気づいていないとなると、目も当てられない事態となる。キリスト教会の多くが「異端」としているグループも、全く同じように、自分たちこそ正統だ、と言っている故に、傍から見れば、同じなのである。
 
いまからでも遅くはない。苦しい人の、精神的な助けに、キリスト教会は動けないのか。教会が宗教法人として一定の優遇性をもっている理由のひとつに、その社会的貢献あるいは公益性という価値が期待されていることがあるのではないだろうか。自分たちは正義である、と仲間内で満足するために、組織を築き、会員を増やそうとすることが、教会の存在目的だとするのなら、そこはもう私の居場所ではない。命ある言葉の説教が語られず、一部の人を差別して扱い、社会や政治に対しては自分の考えが必ず正しい、と考え、生命を支える社会のために祈る気持ちを何年も忘れているようなところは、もはやキリストの名を冠する場所ではない、と判断せざるを得ないのである。
 
空白の30年間をつくったその一人は、間違いなく私である。私は異端的な信仰の苦しみを知っているから、こうした組織とそこに囚われた人の痛みを、忘れてしまったことはない。だから、何かの機会に、統一協会などの問題に、触れないわけではなかった。だが、もっと何か強く言えたはずである。もっと何かできたはずである。そうすれば、今回のように、何人かの命を壊すようなことが、防げたかもしれない。胸がずきずきと痛む。辛い人をいままで多々放置してきたことを、心苦しく思う。しかしまた、何かの機会に言っていたようなことが、現実に何かを防ぐことができていたかもしれない、という希望も、ないことはない。そんな人の力になる言葉というものは、あると信じている。ただ、そればかりは私は知るよしもない。そういうことが、あってほしい、とは願うばかりである。



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