【メッセージ】正義の回復

2022年7月17日

(ローマ3:21-22,詩編50:6)

神の義は、イエス・キリストの真実によって、信じる者すべてに現されたのです。そこには何の差別もありません。(ローマ3:22)
 
◆裁きと赦し
 
教会用語というものがあります。同じ日本語でも、世間には通じない用語が、あるいは世間とは異なる意味で使われる用語が、教会ではあたりまえのように飛び交っています。「兄弟姉妹」などはその代表例で、近年ではそう呼ばないほうが適切だと考え直している教会が多くなりました。よい傾向だろうと思います。「恵まれる」とか「感謝です」とかですら、傍から聞けば、非常に違和感を伴う言葉であるだろうと思います。
 
そのような教会用語のひとつに、「裁く」というのがあります。「ひとを裁くな」という聖書の言葉から来ているのですが、どうも通常の日本語からすると、ずれているように思います。裁判で事の次第を明らかにすることではないし、もめ事を適切に処理することでもありません。もちろん、魚を切ることでもないし、品物を売り尽くすことでもありません。普通の辞書にはない感覚で、教会はこの言葉を使っているのです。
 
教会で「裁く」とは、ひとのことを悪く言う様子を意味します。そう理解している人が多いと思います。
 
学問的に「非難」と「批判」は違うのですが、根拠を伴って冷静に「批判」しても、一方的に非難して決めつけるような形で、「ひとを裁いてはいけない」と言われるのが、教会という場所です。
 
人を裁くな。そうすれば、自分も裁かれない。人を罪に定めるな。そうすれば、自分も罪に定められない。赦しなさい。そうすれば、自分も赦される。(ルカ6:37)
 
恐らく元々は、人間の判断で、他人を罪に定めることを「裁く」と言っていたのだと思います。そこで「裁くな」というキリストの言葉は、人間が人間を罪に定めることはよくない、と言っているように見えます。
 
逆に言えば、ひとを罪に定めることができるのは、神のみだ、ということになります。けれども、福音書の中で、イエスはしばしば、ひとを赦すことを繰り返しています。それを一つひとつ取り上げていたら、それだけで一時間が過ぎていきそうです。イエスはひたすら、人々の罪を赦し、罪を犯さないように、と教え続けました。だから、人々は驚いたのでしょう。そして、律法を運用する者たちから見れば、それは、けしからんことに見えたのです。
 
ところが、律法学者たちやファリサイ派の人々は論じ始めた。「神を冒涜するこの男は何者だ。罪を赦すことができるのは、ただ神だけだ。」(ルカ5:21)
 
聖書の中でイエスは、繰り返し「赦しなさい」と私たちに告げます。それでキリスト者は、人を赦すのが当然だ、と理解します。けれども、私たち人間は、神の権威を以て赦すことはできません。しのかも、「憎め」とは言われず、ひたすら「赦せ」なのですから、私たちとしては、赦すほかの手立てはありません。他方、神でない限り、罪を赦すことはできないと同じ聖書が言っています。私たちに命じられた「赦し」とはどういうことなのでしょうか。
 
結局、赦すしかないのです。ただ、それが究極の赦しとして神がどうなさるか、それを人間が思い込んで決めつけてはいけない、というところにしか、考えは行き着きません。最終的にどうなさるか、それは神の領分です。それを人間が自分の知恵や感情で、決定することはできません。神は神に相応しい仕方で解決してくださる、そう信頼することがせいぜいできるだけです。
 
◆神の義
 
私は神ではありません。当たり前のことだ、と仰るでしょう。けれども私たちは、時に自分を神としていることが、ないでしょうか。「私は正しい」「あの人は間違っている」くらいなら、日常的によくある感情ではないかと思います。それが聖書の用語を使うと、「私は救われている」「あの人は救われていない」との言葉にもなります。こうなるとどうも深刻です。
 
確かに、判断を間違うということがあります。「あの人は間違っている」という言い方は、どうしても必要です。他国に侵攻して人を殺す判断を下すことを「間違っている」と批判する声は必要でしょう。社会制度のために虐げられている人々に罵声を浴びせることは「間違っている」と指摘するのは、むしろ望ましいことのはずです。  
ただ、それらの線引きが容易でないことは、理解できます。真摯に考えようとすると、悩ましいものです。眉をしかめて考えていても、よいアイディアが浮かびません。そんなときには、ひとつ大空を見上げてみましょう。星空もいいですね。皆さんは、最近、空を見上げたことがありますか。
 
天は神の義を告げ知らせる
神こそが裁き手、と。(詩編50:6)
 
神こそが裁き手だ、と、空から声が聞こえて来ました。天とは天国なのか、神の座なのか、そんな謎解きは置いといて、見上げたその空が、私に「神の義」を告げ知らせてきます。
 
神の国と神の義を求めよ、などという聖書の言葉も、聖書をお読みの方ならばおなじみです。神の国というのは、神の「支配」のイメージで捉えるとよい、ということはお聞きになったことがあるだろうと思います。権力の支配が及ぶ領域が「国」ですから、神の国という言葉は、どこそこの土地にある場所だ、というよりも、むしろ神の支配が及ぶところ、のように考えておくのが、元の意味に近いと考えられます。
 
では「神の義」とは何でしょう。これは少しばかり厄介です。「義」もまた一種の教会用語のようなもので、私たちはどうしても、日本語でまずイメージしますから、妙な思い込みをもつことがあります。「義」は儒教で非常に大切な徳のひとつであります。そこでは、自分の利益に基づいて考えることの、反対のことをいいます。自分の損得を第一に考えず、なすべきことは何か、それを優先するようなことを意味します。でも、聖書の「義」がそれで説明できるようには思えません。
 
少し乱暴な読み方ではありますが、難しいとお感じになる方に、ひとつヒントを差し上げましょう。それは、この「義」という言葉を、「救い」と読み替えてみるのです。特に新約聖書においては、神の側からすれば「神の義」であるというのですが、神の正しさが実現するとき、人間は救われます。人間にとっては「神の与える救い」と呼んでいるものと、つながってくるのです。ただ、以下では、そのように一つひとつ読み替えはしませんから、どうぞ各自、必要に応じて、「神の義」を「神の与える救い」と、心の中で読み替えることも試みてください。きっと、いまより少し、ピンとくる場面に出会うことでしょう。
 
さて、新約聖書はギリシア語で書かれていますが、新約聖書以前から、ギリシアには哲学の伝統がありました。そこでは聖書で使われているのと同じギリシア語で「義」が考察されていました。それを「正義」と称して、最も明確に著述したのが、アリストテレスです。ざっくり捉えると、人それぞれに相応しいあり方でものが与えられる、という情況を、正義だと理解しているように見えます。しかし、社会制度が変わるにつれ、その都度、正義とは何かが提言され、歴史をつくってきました。
 
但し、聖書における「義」は、簡単に説明できるものではありません。旧約聖書から大きなテーマとして繰り返し言及され、裁判のような法的な場面や、道徳的・宗教的な場面で、使われていた言葉です。それは確かに「正義」だと言えます。考え方としての正義もありますし、実践されてこその正義という捉え方もあります。旧約聖書のヨブ記でも、神の正義と人の正義とが、激しい議論の中で問われます。
 
◆預言者の義
 
旧約聖書において、この義を訴える使命を受けた特別な人たちがいました。預言者と呼ばれます。未来の予言者ではなく、神の言葉を預かって語る、つまり神に成り代わって、神の思いを人々に語る、選ばれた語り手です。サムエル辺りがひとつの境目のようで、それ以前は「さばきづかさ」と呼ばれていた人々が、それに当たる可能性があります。「士師記」という書の「士師」がそれです。それ以前のアブラハムやモーセなどもまた、預言者の中に数えられることがあります。
 
サウルもまた預言者の一人なのか、などとも言われる場面がありましたが、預言者はダビデの時代から、次第に独自の地位を築いていきます。ダビデの罪を指摘した預言者ナタンも有名ですが、エリヤやエリシャといった、超能力者のような預言者も現れました。そして、旧約聖書の後半に残る、イザヤやエレミヤといった大預言者の書と、十二の小預言の記録の書など、預言者のリストは、そのまま旧約聖書の時代の歴史を刻むようになります。
 
預言者は、神の言葉を預かり、人に伝えます。その言葉は、神の言葉として、巷に投げかけられました。神の言葉ですから、そこには「裁き」があります。また、「赦し」もありました。
 
それにしても、どうして神は裁かなければならないのでしょうか。私たちの社会でもそうですが、なぜ裁判がなければならないのでしょうか。悪人を罰するため、もちろんそれもあります。けれどもそれは、刑事裁判と呼ばれる分野です。民事裁判は、悪人を罰することを目的とはしていません。
 
裁判をする目的は、大きく捉えるならば、「正義の回復」というところに見てよい、そういう考えがあることを知りました。この社会では、正義が常に実現しているわけではありません。不正が横行し、不条理とみられる制度や現実が多々あります。不条理とか理不尽とか私たちは言うときに、そこには、「不」の付かない「理」があるという前提で考えていることになります。その「理」を取り戻すことを、人間は願っているわけです。不正がいけないというのは、正義が実現しなければならない、と考えているからです。複雑で難しい問題も世の中には起こりますが、それでもなお、なんらかの「正義の回復」が望まれているからこそ、私たちは裁判制度を有していることになります。
 
なにも、権力者の都合のよい社会をつくるために、反対者を消すように、と裁判がなされるわけではないのです。歴史上、そうしたことが行われたことはあるでしょうが、人類は、それをよしとはしないように考えています。
 
戻りましょう。時代が一度に流れすぎました。いまは旧約聖書の時代の預言者の正義について受け止めていたのでした。「裁く」というのは、たんに罰することだけではない、と理解しました。すなわち、無罪とする「赦し」もあるわけです。罰さないというあり方によって、正義を回復することもある、ということです。
 
主なる神に背を向けたイスラエル民族は、やがて罰される、と預言者は告げます。しかし一方、イスラエルは建て直される、とも預言します。それは将来的な予言にもなっていますが、このイスラエルの回復もまた、正義の回復のひとつです。イスラエルが正義と呼べるに価するとき、イスラエルが世界の模範となることで、正義が支配する世界が成り立つことになります。また、それにより、聖書の神が人類すべての神だということも明らかになります。
 
◆イエス・キリストによる義
 
いわゆるヘレニズム期のユダヤ教になってくると、旧約聖書もギリシア語訳のものが一般的になっていくなどして、この「義」という言葉も、ヘブライ語からギリシア語の形で理解されるようになっていきました。ひとは、神の前に相応しい生き方をしているか、相応しい存在となっているか、そのような問われ方もなされました。
 
時代の中で、もはやシリアやエジプトといった国も、ローマ帝国の拡大の中で無力となっていました。交通の要所として大国の勢力争いの中で翻弄されていたイスラエルも、さしあたりローマ帝国の中でおとなしくしているほか、ありませんでした。
 
そこへ、画期的な出来事が起こりました。イエス・キリストの登場です。キリストは、旧約聖書を改造したのではありません。それを完成させることを成し遂げたのです。人々が、思いもかけないような仕方で、神の義を実現した、ということになります。このことを、パウロがまとめた聖書の箇所を、今日はお読みしましょう。ローマ書3章です。
 
21:しかし今や、律法を離れて、しかも律法と預言者によって証しされて、神の義が現されました。
22:神の義は、イエス・キリストの真実によって、信じる者すべてに現されたのです。そこには何の差別もありません。
 
律法というのは、まさに神の正義を人に対して示した原理であり、人から見れば正に「法」です。「律法を離れて」とは、かつて人間がそれを理解していたような律法の理解の仕方とは別に、それから離れて、というように捉えましょう。「律法と預言者によって証しされて」とは、旧約聖書にちゃんと根拠をもちながら、と捉えてみましょう。キリストが成し遂げたのは、そのような仕方で、「ここに神の正義がある」ということを明らかに示したことでした。
 
それは、痛々しいものでした。考えただけでも恐ろしい、十字架刑という、残酷な仕方で、イエス自身が殺されるという仕方でしか、回復されない正義だったのです。私たち人間が罪を帯びている以上、それを無条件に赦したのであっては、神の正義が無意味なものとなってしまいます。つまり正義は回復されないことになるということです。罪は死をもたらしますから、神の正義をも守り、人をも徒に死に渡さないために、イエスの十字架がありました。これほどの酷い仕打ちによってしか、神の正義は回復されなかったのです。
 
◆イエス・キリストの信
 
22:神の義は、イエス・キリストの真実によって、信じる者すべてに現されたのです。そこには何の差別もありません。
 
聖書協会共同訳のこの訳は、これまでの訳と大いに変えられています。若干の意見の相違はあるものの、近年、この角度から見ていく理解が進んでいるためです。つまり「イエス・キリストを信じる信仰による」(口語訳)、「イエス・キリストを信じることにより」(新共同訳)が、同じ日本聖書協会のこれまでの訳です。また、かなり新しい新改訳2017も「イエス・キリストを信じることによって」となっており、それまでの新改訳は、口語訳と同じように訳されています。
 
今日話題の中心としている「神の義」が現されたのは、これまでは日本語訳聖書を読む限り、「イエス・キリストを信じること」によるはずだったのに、新しい訳では「イエス・キリストの真実」によるものとなったわけです。これは由々しきことです。
 
日本語訳が変わりました。でも、原語が変わったわけではありません。「信じること」も「真実」も、同じ語です。その語(ピスティス)は、「信仰」「信頼」あるいは「信実」のように訳し分けられる語でした。この語を漠然と示すのに、いま「信」という言葉で表してみると、原語はおよそこのように書かれています。「イエス・キリストの信」、これだけです。
 
日本語の「の」にはいろいろなニュアンスがあります。「ピアノの音色」の「の」は、ピアノ「が有する」とか「が鳴らす」とかいう意味でしょう。しかしここからが問題なのですが、「ピアノの故障」の「の」は、「が」と言い換えられる働きをしています。それから「ピアノの演奏」の「の」は「を」と言い換えられるでしょう。「イエス・キリストを信じる」という意味に受け取るのは、この「演奏」のように「を」ととるのです。それに対して新しい訳だと、「故障」のように、「イエス・キリストが信じる」と理解しています。私は、「イエス・キリストの信」で構わないと思うのですが、聖書協会共同訳では、「イエス・キリストの真実」という形で訳しました。
 
難しくなったのですっきりさせましょう。旧来の訳は、「イエス・キリストを私たちが信じることで」神の義がもたらされた、と言っていました。新しい訳は、「イエス・キリストが私たちを信頼して誠意を尽くしたことで」神の義がもたらされた、と伝えているのです。
 
以前の教会だったら、「信仰をもちましょう」と励ますのが一般的でした。私たちが神を信じる、それがいつも問題になっていました。希望をもたないなら、信仰が薄い。神の助けを待たないのは、不信仰だ。そんなふうに焦らせるようなメッセージも、あったかと思います。これもひとつの真理だろうとは思います。ただ、それで終わりだとすると、その主語である人間の働きの方が、中心となりかねません。事は人間がどうするか、それによって神のなさることが変わってくる、というように、どんどん傾いていく可能性があるわけです。
 
それに対して、「イエス・キリストが私たちを信頼する」ことは、主体はイエス・キリストにあります。それは、私たち人間が何もしないとか、何も関与しないとかいう意味ではありません。ただ、私たちが、神に信頼される者となることを求めるかどうか、それが問われているわけです。それが逆に、厳しさでもあることに、お気づきでしょうか。私が表向き、祈ったとか、施したとか、そういう次元の問題ではないのです。神の信頼を得るような、そんな者でいるのかどうか、そこが問われているというのです。
 
「私は会社でこれこれの仕事をした」、それで社員としての価値が決まるかのように、私たちは思いがちです。でもむしろ、「今度の仕事は、君に任せる」という信頼に、魅力を覚えませんか。「自分は一度ノーヒットノーランをした」という投手もいいけれど、「この場面は君でなければ」と任させる投手にこそ、信頼が置かれている、という考え方が、あると思うのです。
 
人が、神を信じる。神が、人を信じる。どちらも「信じる」という言葉で説明できます。訳語の変更は、私たちを戸惑わせますが、私個人は、パウロは両方の意味を感じていたのではないか、と想像しています。私は信じているんだ、と粋がるだけではなく、キリストが私を信頼してくださっている、と受け止めることを、同時に表現していてもよいのではないでしょうか。でも、これは聖書をこのように解釈せよ、というお勧めではありません。これは、私の「信仰」なのです。
 
◆自己欺瞞
 
22:神の義は、イエス・キリストの真実によって、信じる者すべてに現されたのです。そこには何の差別もありません。
 
「何ら差別はない」とパウロは付け加えました。「そこには」の語ははっきりとは置かれておらず、端的に「差別があるのではない」と読んでおくことにします。つまり、神の義は、神を信頼する者に対しては、誰にでも与えられるのであって、その他の点で差別はない、ということです。「差別」も、他の訳がありうるだろうと思います。どうしても「差別」という日本語には、別のニュアンスが混じり込んでしまいますから、たとえば「区別があるのではない」と考えましょうか。すると、この前の部分で、割礼を受けたユダヤ人の何がすぐれているのか、をパウロは問題にしていることに気がつきます。そこでは「ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にある」(9)と繰り返し指摘しています。それから、律法を守り行ったから神の義を受けるのではない、ということが、強く主張されていたのです。
 
ところが、私たちは、区別をしてしまいがちです。差別を行いがちです。それは、神の義でないものを、正義とするからではないか、と私はよく迫られます。この点に、最後に触れておきたいと思います。
 
「神の義」すなわち「神の与える救い」こそが正義である、というのが、聖書を手にする私たちの信仰です。それは、正義ではなく罪の中にある私たちが無罪とされたという、驚くべき、ある意味で超法規的措置のようなことを信じることです。けれども、この神から与えられる正義というところが、いつの間にか抜け落ちて、ただ端的に、自分自身が正義である、という前提に立ってしまうとしたら、判断を誤ってしまいます。
 
それはもちろん、いまこうして申し上げている私自身にも適用されることです。私がお奨めしている読み方も、私の受けた聖書からの光も、私が勝手に正義だ、真理だ、と呼んでいるのだとしたら、私自身が自分を正義としてしまうことになるからです。
 
自分で自分を正義だと決めつけてしまうこと。ここは、用心しましょう。よほど用心しないと、その罠に陥っていることにすら気がつきません。
 
最近はめっきり流行らなくなった言葉のひとつに、「自己欺瞞」というものがあります。自分を騙すことです。これはまだ、自分で気づいている前提があります。これは本当じゃない、これは間違っている、それを意識しているのに、それでもやっぱりこれしかないんだ、仕方がないんだ、と自分を肯定するのです。これは実に蔓延していると思います。教会の中にはそれがない、などという特権はありません。むしろ、それに蝕まれている教会もあることを知っています。
 
他方、その欺瞞性に、自分で本当に気づいていないという人も、多分にいます。実に無邪気に、勘違いをして、自分が正義だ、と主張してやまないのです。このような人には、「自分の胸に手を置いて考えてください」と言っても、全く通じません。胸に手を置いて、何かしら胸が痛くなることがあるならば、まだ間に合います。ヨハネによる福音書8章の、あの女を取り囲んだ男たちは、「年長者から始まって、一人また一人と立ち去って」(8:9)行っただけ、実はまだ健全だったのです。この、良心への問いかけに応えた人々がそこにいてくれたお陰で、イエスは女に「これからは、もう罪を犯してはいけない」(8:11)と声をかけることができました。それぞれの人たちに、新たなスタートが与えられました。
 
私たちは、自分が正しい、との確信に、しがみついてはいけないのです。戦争は、その確信からしか、始まらないのです。
 
◆正義の回復
 
私たちは、一旦、自分が正しいという前提から、離れてみましょう。そして、イエス・キリストに来て戴きましょう。私たちが信頼するイエス、私たちを信頼するイエス、その方は、いつも私たちと共に食してくださっていますけれども、それでもなお、もう一度私たちの中にお呼びしましょう。
 
それは、私にとっても辛いことであるかもしれません。私の中の欺瞞や、私の中の悪辣な思いなどが、悪い意味で裁かれることになるかもしれません。それでも、私は信頼するのです。イエスが私を信じている、と信じるのです。なぜなら、主は徹底して、赦してくださったではありませんか。あの十字架の上で、血まみれになりながら、私を赦してくださったではありませんか。それをいまパウロが、「イエス・キリストの真実」だ、と証ししたと思ったのです。
 
それでも私には、神のすべてが分かるわけではありません。無器用に、たどたどしく、イエス・キリストを見上げながら、自分に与えられた光の中から、自分が見せてもらったことを、なんとか説明できたらよいのに、と、もがいているだけです。そんな未熟な人間ですが、神は、それがだめだと一蹴するようなことは、なさいませんでした。
 
自分をごまかしていた自分に気づき、正義についてとんちんかんな思い込みさえしなければ、おまえたちは、まだ可能性をもっている。いつか神の正義の実現をまざまざと見せつけられたときには、いささか驚くかもしれないが、神の義を与えたおまえたちは、神のなす業を、きっと喜んで見守ることだろう。
 
そんな励ましをいま、私たちは主イエスから、「赦し」という語の満ちた世界で、受けています。
 
イエス・キリストに、私たちは信頼されています。神の正義がこの世界にも現れるために、おまえたちには何かができる、と期待されています。そんなキリスト者でありたい、と願います。そんな教会でありたいと願います。
 
聖書は問いかけてきます。おまえたちは、そういう世界をつくることに力を用いないか。おまえたちが、そしておまえが、その世界のために叫ばないか、動かないか。おまえたちは、いつも正義の側にいるとでもいうのか。それならばまさに罪だと裁かれよう。正義になりきれないおまえを、自覚せよ。そして、そのおまえを、正義の側に引き入れるための入口まで来るのだ。
 
イエス・キリストの十字架の前へ来て、それを見上げるのだ。おまえの罪が裁かれることで、正義が回復される。この十字架が、その裁きを受けたのだ。おまえの罪が赦されることで、正義は回復される。この十字架が、おまえの罪を赦したのだ。
 
聖書は、神は、いま呼んでいます。いまここで、おまえ次第で、神の正義は回復されうるのに、と。



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